ローマ・カトリック年語呂【年号ゴロ合わせ】

*これは年語呂年註-世界史版のひとつです。ローマ=カトリック教会の歴史の概略をゴロ合わせにそって見ていきたいと思います。

*音声で耳から覚えるためYouTubeに教材を上げています。こちらです。文字だけではリズムをつかみにくいフレーズもスムーズに覚えられます。ぜひ一度聞いてみることをお勧めします。


[ローマ・カトリック教会年語呂] 

・モンテ=カシノ修道院(ベネディクトゥス)
529年 ベネちゃんゴッツ苦労し作ったモンテ=カシノの修道院
*東ゴート支配の時代
*ローマの南モンテ=カシノの山中に修道院建設
*『祈りと労働』を重視。

 [覚え方]
修道士のひど
従・清貞を重んじる。


・グレゴリウス1世
【在位】
590604 グレ1が困苦を乗り越え建てるローマよ
*ベネディクト派修道士としての経験
*ゲルマン人布教を推進

・カールの戴冠
800 晴れ冠カールに授けるレオ3世
*ローマ教会がフランク王国を政治的な保護者とすることに成功。

・クリュニー修道院
910 リュニー建つ修道院
*11世紀〜12世紀に修道院改革運動の中心となる。

・カノッサの屈辱
(叙任権闘争→教皇グレゴリウス7世が神聖ローマ皇帝ハインリヒ4世破門→皇帝が屈服)
1077 どんな泣き面カノッサの屈辱
*世俗的権力である神聖ローマ皇帝から聖職叙任権を奪回しようとする試み。→教皇の勝利
*グレゴリウス7世はクリュニー修道院出身。

・クレルモン公会議
1095 聖戦行ってくれるもん説く公会議
→意地でも聖地をウルバヌス2世
→第1回十字軍(1096)→『中世十字軍年語呂

 <修道院の生活が奢侈に流れる>

・ロベールがシトー派修道会をおこす。
1098 もう一度清貧説くわシトー派修道会
*クリュニー派と同様にブルゴーニュで始まる。
*大開墾時代(13世紀)の推進力となる。

・ヴォルムス協約
1122 教皇にゃ負けると言いつつヴォルムス協約
*叙任権闘争の皇帝側の妥協→ローマ教会が聖職叙任権を獲得(世俗的権力(皇帝)と宗教的権力(教皇)の別が明確にされる)
*司教などは封建領主でもあったので、ドイツ国内においてはドイツ王(皇帝)が授封した者の中から聖職者を選出することになった。

[三大騎士団]
・聖ヨハネ騎士団(教皇承認)
1113 聖地を守る人々勇んでヨハネ騎士団
(参考)1080 今は俺、騎士団昔はヨハネ病院 (*成立)
・テンプル騎士団
1119 修道の人々戦でテンプル騎士団
・ドイツ騎士団
1190 巡礼の人行くお供にドイツ騎士団
*これはエルサレムのドイツ人巡礼者を保護する聖母マリア病院修道会としての起源です。
インノケンティウス3世が教皇となった1198年に軍事的性格を持ち、翌1199年に公認されました。
→『ドイツ帝国年語呂

・インノケンティウス3世
11981216 人々苦は人に居ろ。
*教皇権の絶頂期の教皇として有名。
・第4回ラテラン公会議
1215 太陽とひとつ行こーぜギラギラ照らん公会議
*インノケンティウス3世『教皇は太陽、皇帝は月』という言葉を残した。

・フランチェスコ修道会
1209 托鉢の修道会を一つ置く
*イタリアでフランチェスコがつくった托鉢修道会
*次の年(1209)に教皇インノケンティウス3世に面会し活動を認められる。

・ドミニコ修道会をローマ教皇が承認
1217 ドミニコ会の人にイーなとお墨付き
*カタリ派の改宗のため教皇インノケンティウス3世に派遣されたドミニコにより南フランスで開かれた托鉢修道会
→異端との戦いに使命感を燃やし『魔女狩り』の先頭に立つようになっていく。

・ルイ9世の最後の十字軍→『中世十字軍年語呂
1270 帰らぬ人になれるルイ9十字軍

・アナーニ事件(仏フィリップ4世)
1303年 フランス王まるで人されーさ人さらいさ
*フランス王フィリップ4世がフランドルをめぐるイギリスとの戦争の資金を得るため、教会財産に課税しようとした際、教皇ボニファティウス8世はこれを禁止する回勅をだした。フィリップ4世は三部会の承認を得たうえで教皇を攻撃し破門を宣告される。これに対し、フィリップ4世の宰相ギョーム=ド=ノガレは軍を率いアルプスを越え、アナーニ滞在中の教皇を急襲し退位を迫った。

*その後、ボニファティウス8世は救出されたが、恥辱を受けた教皇は一ヶ月後に憤死した。

・テンプル騎士団一斉逮捕()
1307 テンプル騎士団金だけおいて人去れな
*戦費調達のため、テンプル騎士団の豊富な資産に目を付けたフィリップ4世が会員を一斉逮捕。同性愛・悪魔崇拝などの嫌疑で異端審問→拷問により自白を迫る。

・教皇バビロン捕囚
1309年 教皇の人様急にアヴィニヨン
*フランス人ボルドー司教がクレメンス5世として教皇
→フィリップ4世の圧力により南仏アヴィニヨンへ教皇庁を移す。

・クレメンス5世がテンプル騎士団の禁止を決定
(ヴィエンヌ公会議)
1312 一切潰され何もヴィエンヌ公会議
*教皇が正式にテンプル騎士団の禁止を決定(ただしフランス以外は従わず)
→フィリップ4世は資産没収後、指導者らを火あぶりで処刑。
*何も『ヴィエンヌ』は何も『言えん』と掛けています。

・大シスマ(教会大分裂)
1378年 いざ縄を張り大シスマ
*前年(1377)に教皇がローマにもどったがすぐに亡くなり、ローマで新たに選ばれた教皇に対してフランス側の聖職者が選挙の無効を宣言、アヴィニョンに新たな教皇を立てた。

・大シスマ解消(コンスタンツの公会議)
1417年 縄とき教会ひとしいな

・コンスタンツの公会議(皇帝ジギスムント)
141418 異端いよいよ火刑でイーワとコンスタンツの公会議
*教会を再統一(大シスマ終わり)
*フスの火刑、ウィクリフを異端とし遺体を掘り返して火刑。

・フス戦争
141936 その気ならイーヨいくさで見ろフス戦争
*ボヘミア (ベーメン)のフス派(チェック人)がプラハで暴動をおこし、神聖ローマ皇帝がボヘミア制圧のため『十字軍』を派遣。ボヘミア側はこれをことごとく撃破し連戦連勝したが、人民は疲弊し、最終的に穏健派が急進派を一掃した。

*これらの動きは後の宗教改革につながっていく。

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