ドイツ帝国年語呂【年号ゴロ合わせ】

*これは年語呂年註-世界史版のひとつです。このページでは、ブランデンブルグ選帝侯国・ドイツ騎士団からプロイセン公国が生じ、ドイツ帝国が生まれ、崩壊するまでの歴史をゴロ合わせでおさえていきたいと思います。

*音声で耳から覚えるためYouTubeに教材を上げています。こちらです。


・ブランデンブルグ辺境伯領
1157 熊公いい子な辺境伯
*ドイツの東方進出に寄与したアルブレヒト熊公が、1157年に創設、初代ブランデンブルグ辺境伯に封ぜられました。

・ドイツ騎士団
1190 巡礼の人行くお供にドイツ騎士団
*1190年、第3回十字軍の際に、ドイツ北部のブレーメン・リューベック出身の商人がエルサレムのドイツ人戦士を保護するためにアッコンに設立した病院を起源とします。
*その後、1198年、インノケンティウス3世が教皇に選出された年、テンプル騎士団をモデルに軍事的な性格を持つ様になり、1199年に騎士修道会として教皇の公認を受けました。
*教皇の命令のもと、聖地のキリスト教保持を任務とする騎士団として、エルサレムはじめ、ドイツ・イタリアなど土地の『寄付』を受けます。→『ローマ=カトリック年語呂』参照

・ドイツ騎士団領成立
1230年 十字架の騎士の意地見れドイツ領
*12〜14世紀にドイツ人により行われた東方植民の一環として位置付けられ、バルト湾沿岸に築かれました。
*当時、ハンガリーにいたドイツ騎士団は、異教徒征服に手を焼いていたポーランド国王に招かれ、バルト語系の異教徒、古プロイセン人の征服。同地の領有を認められます。『プロイセン』は同地の古名から取られたものです。
*ドイツ農民の東方への植民を推し進め、地主貴族(ユンカー)が直営する農場(グーツヘル)を基とした封建的な農場領主制(グーツヘルシャフト)が定着しました。

・ベルリン開基
1242年 いつ世に現る首都ベルリン
*ブランデンブルグ辺境伯領にベルリンが生まれました。もっとも、この頃の宮殿はブランデンブルグにおかれていました。

・ホーエンツォレルン家がブランデンブルグ辺境伯になる
1415年 いーよ行こうねホーエンツォレルン辺境伯
*ホーエンツォレルン家のニュルンベルク城伯フリードリヒ6世が、初めてブランデンブルグ辺境伯位を獲得しました。
(ブランデンブルグ辺境伯としてはフリードリヒ1世)

・タンネンベルクの戦い
1410年 (丹念に)生きるの必死ドイツ騎士団
*ドイツ騎士団は、ヤゲウォ朝ポーランド=リトアニア王国との戦いに敗れ壊滅的な打撃を受けました。バルト海沿岸に東方植民を行っていたドイツ騎士団の東進はこれによりとどめられます。

・十三年戦争
145466 離れても等しー子よ室(むろ)騎士団領
*ドイツ騎士団の支配から脱することを望む、ダンツィヒ、トルン、エルヴィングなどハンザ系諸都市の連合が、ポーランド国王を後ろ盾として起こした戦争。ドイツ騎士団は敗北し、西プロイセン一帯はポーランド領となり、騎士団領はドイツに対して飛び地となりました。
*語呂は、飛び地になった騎士団領のことです。

・プロイセン公領成立
1525年 騎士団領以降都合でプロイセン
*ドイツ騎士団領が、宗教改革時代に世俗化することで成立した、最初のルター派公領でした。
*ホーエンツォレルン家出身のドイツ騎士団総長アルブレヒトが、騎士たちと共にルター派に改宗し、騎士団領を廃してプロイセン公を称することで成立しました。
*当時のプロイセンは、ポーランドの属領(領邦)であり、プロイセン公は、ポーランド王から封土を与えられた封建臣下という立場でした。

・ブランデンブルグ=プロイセン成立
1618年 広いわブラデン=プロイセン
*プロイセン公国の公家が絶えたため、ホーエンツォレルン宗家のブランデンブルグ辺境伯が公位を相続することになりました。

・三十年戦争
1618年 被害地広いわ三十年戦争
→1648 他の国の人無視はダメウェストファリア
*三十年戦争によって疲弊しましたが、ウェストファリア条約で、東ポンメルンの領有権が認められました。

・北方戦争
1655〜61 バルト海向こー頃行け北方戦争
*バルト帝国スウェーデンのポーランド=リトアニア共和国への侵攻にあたり『フリードリヒ=ヴィルヘルム大選帝侯』は、スウェーデン軍側で参加し、1656年のワルシャワの戦いでポーランド=ロシア連合軍に勝利します。
*その後、スウェーデンのポーランド分割の野心を警戒して離脱し、今度はポーランド側に付いて反スウェーデンの戦いを行うなど、両国の対立の中を上手く立ち回り、ポーランドから独立国家としての承認を勝ち取ります。
*語呂の『向こー頃』は『向かう頃』という意味です。

・プロイセン公国成立
1660年 一路群れなしプロイセン公国
*ポーランド・リトアニア王国から正式に独立し、プロイセン公国が成立しました。

・プロイセン王国に昇格
1701年 プロイセンいーな王一
*スペイン継承戦争で、神聖ローマ皇帝パプスブルク家側に立って参戦するとともに、莫大な献金を贈り『王国』に昇格することを認められました。

・フリードリヒ=ヴィルヘルム1世
【在位】
1713〜40 いーないざ寄れフリードリヒ
*官僚制の整備・重商主義政策など絶対王政の確立に努め、特に軍隊の増強に力を入れ、全国を兵営化する徹底した軍国主義政策をとりました。
*その乱暴な性格から『兵隊王』と言われました。

・フリードリヒ2世
【在位】
1740〜86 いーな寄れやろうや啓蒙専制君主
*ヴォルテールらフランス啓蒙思想を信奉し『君主は国家第一の僕』を自称。信教の自由、産業育成、司法改革、国民福祉の向上など、開明的な政策をとる一方、軍事力の強化に取り組んで周辺国と戦争を繰り返し、領土拡大に努めました。

・オーストリア継承戦争
1740年 テレジアにたかりたい奴いーな寄れ
*フリードリヒ2世が、オーストリアのマリア=テレジアが、ハプスブルク家の全領土を継承した事に異議を唱えて、シュレジェンを占領したことで始まりました。
*オーストリアと争うバイエルン公やフランスを誘い、イギリスに支援されたオーストリアと戦い、『シュレジエン』を獲得しました。

・七年戦争
1756年 七年戦争人七しあう
*『シュレジエン』奪回を目指すオーストリアのマリア=テレジアは、フランスと同盟を結ぶという外交革命に加え、ロシアとも手を組んでプロイセンを孤立させました。
*こうした中でプロイセンは辛うじてオーストリアに勝利し『シュレジエン』を確保。フランス、イギリスに続くヨーロッパの強国の地位につきました。

・第1回ポーランド分割
1772年 ポーランドの人中々辛い第一回
*第2回以降は→『ロシア皇帝早覚えB』参照

・フランス革命干渉軍派遣
1792 非難国あげ干渉戦争
*プロイセンはオーストリアと共にフランス革命の干渉軍を派遣します。
*当初、フランス軍は、旧来の貴族を主体とした軍隊で各地で敗北を重ねましたが、フランス議会は非常事態宣言を発し、全国から集まった市民を中心とする義勇軍が組織されました。
これら義勇軍に対しプロイセン軍は、『ヴァルミーの戦い』で敗れ、これ以降、戦局は一変、オーストリア軍もベルギーで市民軍に敗北しベルギーから撤退しました。

・第1回対仏大同盟
1793年 王の人泣くさギロチンジャコバン派
*ルイ16世の処刑によって危機感を抱いたヨーロッパ諸国が、革命政府打倒のための同盟を結んでこれに干渉しました。
*プロイセンもこれに参加しました。当初、フランスは劣勢でしたが、同年の末から反攻に移り、フランス国内に侵攻していた同盟軍はフランスから締め出され、更にフランスの攻勢は続き、逆にプロイセンが戦争継続を断念し、2年後の1795年フランスとバーゼル和約を結び、フランスのラインラント併合を認めました。

・ライン同盟
1806年 ドイツ諸邦のやまろうライン同盟
*アウステルリッツの三帝会戦に勝利し、第三次対仏大同盟を崩壊させたナポレオンが、オーストリア・プロイセンをけん制するため、ドイツ諸邦16カ国をあわせて建てた傀儡政権。
→それまで中立であったプロイセンが英露瑞諸国と第4次対仏大同盟を結成。
→プロイセンは、イエナ・アウエルシュタットの戦いで敗戦を繰り返し、ナポレオンはベルリンに入城します。
(『大陸封鎖令』はここで発せられました)
→翌年(07)、ティルジット条約

・ティルジット条約
1807年 ティルジットプロシア否応なく和約
*ここの『プロシア』はプロイセンにロシアを含ませています。
*プロイセンは、エルベ川以西の領土を失い、新たにウェストファリア王国が置かれ、ナポレオンの弟ジェロームが国王とされました。
*プロイセン領ポーランドは、ワルシャワ大公国とされ、ザクセン王の支配下とされました。
*大陸封鎖令に従う他、多額の賠償金が課せられました。

・ウィーン会議→ドイツ連邦成立
1814 化け物の退治祝いよウィーン会議
*ウィーン体制のもと、墺・普以下35の君主国と4自由都市で『ドイツ連邦』が成立しました。
→実際に決定したのはウィーン議定書(1815)においてです。
*プロイセン、オーストリアといった君主国以外に、ハノーファーの君主はイギリス国王、ホルシュタインの君主はデンマーク国王でした。

・ドイツ関税同盟
1834 経済にイーワさよろしく関税同盟

・ドイツ三月革命
1848 西欧の人は幸せ求め革命
*フランスの二月革命により第二共和政が成立したことに影響を受け、ドイツ諸邦で次々に民衆が蜂起。オーストリアとドイツの首都、ウィーンとベルリンにも飛び火し革命が広がりました。

*暴動の過激化を恐れたプロイセン国王は、憲法制定を約束。
→フランクフルト国民議会(〜49)
*革命の沈静化後、プロイセン国王が自由主義内閣を退けドイツ皇帝への即位を拒否したため挫折。

*ちょうどこの年の二月末にカール=マルクスがとエンゲルスが『共産党宣言』を発表しています。

・プロイセン欽定憲法発布
1850 プロイセンの人はこれやろ欽定憲法
*君主権の強い欽定憲法を独自に制定して発布。
*ドイツ帝国成立後『ドイツ憲法』となる。

・ビスマルク首相に任命
1862年 鉄血首相の人は無二

・プロイセン=オーストリア戦争
1866年 同じドイツの人はムカ普墺戦争
→シュレスヴィヒ・ホルシュタイン両州の管理問題で対立

・プロイセン=フランス戦争
1870年 甥のくせに威張んなお前と普仏戦争

・ドイツ帝国成立(ドイツ帝国憲法)
1871年 一人だけれてたいドイツ帝国

・文化闘争
1871年 イヤな人潰そうビスマル文化闘争
→近代化の障壁として南ドイツのカトリック教徒を抑圧

・ドイツ社会民主党成立
1875年 一派成れぞ社会民主党

・ドイツ社会主義者鎮圧法
1878年 イヤな奴社会主義者の鎮圧法
→『皇帝狙撃事件』に対応して制定されました。

・三帝同盟
1873年 手を組んで一花咲かそう三帝同盟(〜79)
アルザス=ロレーヌ地方を失ったフランスの、ドイツへの復讐心を見越して、ビスマルクがフランス封じ込めの為に結んだ、独墺露三国間の同盟。
*以降、ビスマルクの国際均衡政策(ビスマルク外交)が展開されます。

・ロシア=トルコ戦争(露土戦争)
1877年 オスマンにイヤな流れの露土戦争

① オスマン治下のボスニア=ヘルツェゴビナのスラブ系農民が地主に対し反乱を起こす。
② ブルガリアにも反乱が広がる。
③ スラブ系のセルビア公国・モンテネグロ公国からキリスト教徒農民の支援の運動が起こる。
④ クリミア戦争で一時『南下政策』を断念してい
たロシアのアレクサンドル2世が、パン=スラブ主義を掲げ、スラブ系キリスト教徒保護を名目にオスマン帝国に宣戦。

・サン=ステファノ条約
1878年 オスマンにイヤな約束 サンステファノ

*アドリアーノープルを占領しイスタンブールに迫ったロシアに対しオスマン帝国が講和。

*ルーマニア・セルビア・モンテネグロの独立に加え、ブルガリアを自治公国とし事実上の保護下におくことで、ロシアの勢力が地中海に及ぶ可能性が生じた為、1856年のパリ条約に違反するとして、イギリスやオーストリア=ハンガリー帝国は、猛反発しました。

・ベルリン会議
1878年 ビスマル先導イヤな話をベルリン会議
→ベルリン条約

*サン=ステファノ条約の問題についてビスマルクが調停に乗り出しベルリン会議が開かれました。

*その結果、ロシア・ブルガリアの獲得領土は大幅に縮小、ロシアの南下政策が阻止され、オーストリアがボスニア=ヘルツェゴビナを、イギリスがキプロス島を得るなど、勢力の均衡が図られました。

*バルカン半島をめぐるオーストリアのパン=ゲルマン主義と、ロシアのパン=スラブ主義の対立が表面化し、ロシアのドイツ・オーストリアに対する不信が高まりました。結果、ロシアは翌年1879年に三帝同盟を離脱しました。

・三帝同盟(〜87)
1881年 一早い対応再び三帝同盟
*オーストリアとロシアの対立は国際均衡政策にとって危険要素であった為、ビスマルクは三帝同盟の復活に尽力し再び三帝同盟が結ばれました。
*同盟国が、同盟国以外の国と戦争を行った場合には、他の二国はその戦争に対して『中立』を守ることとされました。

・三国同盟
1882年 英仏の人やや不利になる三国同盟
→前年、フランスがチュニジアを保護国化。不満を持つイタリアを取り込み独墺伊で三国同盟が成立しました。
*中学生用の語呂で、第一次世界大戦を前提として作ったのでこのようなゴロになっています。本来は前年の新三帝同盟と同様に、ビスマルクによるドイツの安全保障対策の一環としてとらえられます。後にヴィルヘルム2世が出て三国同盟にビスマルクと違った意義を持たせることになります。

・再保障条約
1887年 オーストリアの人は離して再保障条約
→オーストリア拒否による三帝同盟消滅に対応して独露間で条約。
*ロシアの既得権を承認する代わりに、独仏間の対立にはロシアは中立を守る、というもの。
→フランス包囲体制を保持する。

・ヴィルヘルム2世即位
1888 帝国の人はババ引くヴィルヘルム2世

・ビスマルク辞職
1890 ビスマル退陣ドイツ帝国陽は暮れ
→政治の主導を望むヴィルヘルム2世は、ビスマルクを退陣させました。
*以降、ヴィルヘルム2世は『世界政策』の名の下に、強引な帝国主義政策をおしすすめ、植民地の『再配分』を要求してイギリスをはじめとする列強と争うことになります。

・ドイツ再保障条約の更新見送り
1890 様々ないわくを持った再保見送り
*ヴィルヘルム2世は、対外政策の自由を広げることを目的として再保障条約の更新を拒絶しました。

・露仏同盟
1894 外交を人は駆使して露仏同盟
*1891年の合意から長い協議をへて調印されました。
*ドイツの資金援助が途絶えたことで、ロシアは工業化の資本を得る為にフランスに接近し、フランスは、外交的孤立を脱すました。

・ドイツがミクロネシアを獲得
1898年 アメリカの人は食わむよスペイン領
→米西戦争(アメリカ=スペイン戦争)の結果、グアムがスペイン領からアメリカ領となりました。
→戦後の財政難に苦しむスペインは、以前からその権益をめぐり、争いがあったドイツにグアムを除くミクロネシアを売却しました。

・バグダード鉄道敷設権の要求
1898 人はれバグダード鉄道
*ヴィルヘルム2世の東方旅行の際に、イスタンブールでオスマン帝国に対して要求され、翌1899年認めさせました。これに先立ち、ドイツはオスマン帝国から小アジアでの鉄道敷設権を得て、1889年(イチハヤク)『アナトリア鉄道会社』を設立しています。
*ドイツの中東進出のため、ベルリン→ビザンティウム→バクダードを結ぼうという、いわゆる『3B政策』の一環です。

・英仏協商
1904 英仏で行くいも吹っ切れる
*孤立政策で、国益を守りきることが困難になってきたイギリスは、1902年の日英同盟をきっかけに孤立主義を捨てました。

・モロッコ事件
1905と11 執念で人クマ濃いいモロッコ事件
→フランスのモロッコ支配に対するヴィルヘルム2世の挑戦です。
→目にクマができた『執念深い』顔のイメージです。

・英露協商
1907 英と露の人食う同じ釜の飯

・三国協商
1907 世界中緒に食おーな三国協商
→同年、日露協商、日仏協商
→軍事的には、ドイツ・オーストリア同盟への攻囲体勢が整えられます。

・バルカン同盟
1912 戦争に行く日に備えてバルカン同盟
→ロシアが、オーストリアのバルカン進出に対抗してセルビア・ブルガリア・モンテネグロ・ギリシアを結束させます。
→前年からイタリア=トルコ戦争(12〜13)
→同年、第一次バルカン戦争(〜13)
*バルカン同盟がオスマン帝国に対して宣戦。
→翌年、第二次バルカン戦争
*獲得領土の分配で争いとなり、ブルガリアと他のバルカン同盟の間で戦争。

・第一次世界大戦
1914 軍事化が酷くいよいよ世界大戦
→ドイツ軍が中立国ベルギーに侵入することで開戦。

・無制限潜水艦作戦
1917 船で行く人なべて沈める潜水艦
→アメリカ合衆国参戦

・第一次世界大戦終戦
1918 ドイツ引く日は大戦終了
*3月→ブレスト=リトフスク条約(独ソの単独講和)
*11月→キール軍港蜂起
*11月11日→ドイツ革命(ヴィルヘルム2世退位→共和国)

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