『テンプレ世界史ーオリエント国の移り変わり』のおまけページです。ここでは、アレクサンドロス大王の事績からディアドコイ戦争までを、年号ゴロ合わせに沿って見ていきます。
→『年語呂年註』目次ページ
音声で耳から覚えるためYouTubeに教材を上げています。こちらです。文字だけではリズムをつかみにくいフレーズもあるためぜひ一度聞いてみることをお勧めします。
【アレクサンドロス大王年語呂】
*正確にはアレクサンドロス3世です。
(まあ、これだけであれば、ルパン3世とかと結びつけて覚えておけばいいでしょう)
*イッソスの戦いで破ったアケメネス朝のダレイオスも3世なので、ペアで覚えておくといいですね。
*マケドニアのフィリポス2世の息子です。→『古代ギリシア年語呂』
・在位
前336〜前323 さー見ろさっさと在位期間
*アレクサンドロス3世の在位期間は13年で34歳で死去します。で、さっさと見ないと死んでしまうよ!という語呂です。
*一年毎のゴロ合わせなんて要らんやろというのは正論です。この語呂合わせに限らず、基本つまみ食いでOKです。
*これはむしろ語呂合わせを通じて流れを確認しようという企画です。
*『っ』をカウントするのは規則違反ですが、大目にみてください。m(_ _)m
・東方遠征
前334 これからは散々支配すアレクサンドロス
*実際には、ペルシア遠征を計画したのはコリントス同盟をつくってギリシアをまとめた父フィリポス2世でした。然し前336年に暗殺されてしまいます。若干20歳で即位したアレクサンドロスはこの父の遺志を継いだ形になります。
*とはいえ、父の暗殺で混乱したギリシアにあって敵対者を次々と戦闘を通じて撃破し沈黙させた上で、マケドニアを摂政アンティパトロスに預けて遠征に出発しています。こと『戦争』に関しては初めから神がかっています。
・イッソスの戦い
前333 イッソスでペルシアダレさん散々さ
*ダレイオス3世率いるアケメネス朝ペルシア軍10万の兵をマケドニア軍4万足らずで撃破しました。
・エジプト征服
前332 エジプトはさぁさぁ連れ込みアメンの息子
*エジプトではアケメネス朝からの解放者として迎えられファラオとして即位します。
*この際にアレクサンドロスをアメン神の子とする神託を得ました。
・ガウガメラの戦い
前331 ペルシア征服ささいな事よとガウガメラ
*再びダレイオス3世と決戦しアケメネス朝を完全に滅ぼします。『アルベラの戦い』とも言います。
*『ガウガ』と『豪語』を掛けています。
・中央アジア進出
前329 中央アジアで醜いゲリラ戦
*バクトリア・ソグディアナ侵攻の際に、富裕な貴族の多いソグド人の激しい抵抗に遭います。
*結果的に制圧しますが、マケドニア軍のギリシア人将兵を地域の有力者の娘と結婚させるなどの融和策をとります。自身もバクトリアの豪族の娘ロクサネと結婚します。
・インド進出
前327 インドに押し入る身になれり
*更にアレクサンドロスはインド侵入を開始します。
・パンジャーブ地方侵入
前326 インダスの対岸見に向くパンジャーブ
*インダス川以西に進出したアレクサンドロスは、遂にインダス川を越えてパンジャーブ地方の征服を目指します。
*そこでも戦いはマケドニア軍の優勢で進みますが、長い遠征で疲れ切った将兵はこれ以上の進軍を望まずアレクサンドロスはここで兵を引くことになります。
・スーサ合同結婚式
前324 めでたくスーサに祝言あげる
*アレクサンドロスはマケドニア・ペルシア両文化の融合を意図しその象徴としてマケドニアの将軍たちとペルシアの貴族の娘達を結婚させます。彼らの子は両文明の結合を象徴する子となるはずでした。
アレクサンドロス自身も、ダレイオス3世の長女と結婚しました。
*この後、バビロンで国制の整備を行いました。広大な領域はマケドニア、ギリシア、ペルシアの3地域に分けられ、ペルシア人も積極的に登用し、自身をペルシア帝国の後継者と位置づけ、ペルシアの儀礼や制度を導入しました。
*若いときからアリストテレスを家庭教師として哲学に接していたアレクサンドロスは、征服過程でペルシアの統治の優秀さに触れ、率直に敬意を抱く様になっていたと言われています。
・バビロンで急逝
前323 →在位期間参照
*アレクサンドロスはバビロンで祝宴中に倒れ、10日間苦しんだ後に死去します。
*アンティパトロスの息子カッサンドロスに暗殺されたという説もありますが『蜂に刺された』という伝承の方が哲学的には面白いです。マケドニア軍の騎兵の先頭に立って突進して敗れることのなかった大王が一匹の蜂に命を落としたという訳です。
・バビロン会議
*前323年アレクサンドロス大王の死去まもなくして開かれたその後の帝国のあり方を話し合う会議です。
*新たに決まった太守(サトラップ)に帝国領土が割り当てられました。
〈ディアドコイ戦争〉
前323 〜前276
*アレクサンドロスの死の年からアンティゴノス朝が支配を確立するまでと覚えます。
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・アンティゴノスがバビロン侵攻
前315 勢い最高アンティゴノス
*バビロン太守だったセレウコスは、この侵攻におされエジプト太守プトレマイオスを頼って逃れました。この後、彼らは反アンティゴノスの同盟を形成します。
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・セレウコスがバビロン太守に復帰
前312 →『アケメネス朝〜ササン朝年語呂』
*セレウコスはプトレマイオスの援助のもともう一度バビロン太守に復帰することに成功します。普通このときをセレウコス朝の始まりとします。
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・サラミス海戦
前306 王様向いてるゴノスの息子
*アンティゴノスの息子デメトリオスがサラミス海戦でプトレマイオスを破り、キプロス島を奪いました。この勝利の後父子で『王』を名乗ります。
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・プトレマイオス王を名乗る
前305 王様この身もプトレマイオス
*アンティゴノスに対抗してエジプト太守プトレマイオスも『王』を名乗るようになります。
*同年、セレウコスも『王』を名乗り、首都セレウキアを建設します。
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・イプソスの戦い
前301 アンティゴノスは去れイプソスで
*ディアドコイの中最有力候補であったアンティゴノス1世が、セレウコスらとの戦いで戦死することでアレクサンドロス帝国の再統一が不可能になった戦いです。
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・アンティゴノス朝マケドニア
【成立】
前276 本国結局アンティゴノスの地になろう
*デメトリオスの子、アンティゴノス2世がマケドニアとギリシア大部分について支配を確立しました。
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【滅亡】
前168 アンティゴノスのヒーローはなく滅亡す
*共和制ローマの進出によって滅ぼされました。
*『最も強いものが国を継げ』というアレクサンドロスの遺言から始まったディアドコイ戦争。もとから業の深い戦いでした。
*ディアドコイ戦争では、精彩を放って活躍する有力な武将たちの殆どは、その揺るぎのない地位を築いたか一歩手前というところで悉く非業の死を遂げます。
その様子はまるで『仁義なき戦い』でも見ているかのような感じです。最後まで生きていたのはアレクサンドロスの学友であったプトレマイオスくらいでした。