アケメネス朝~ササン朝年語呂【年号語呂合わせ】

テンプレ世界史セレウコス朝シリアからイスラム帝国へおまけページです。このページでは各王朝の成立した年と滅亡した年をゴロ合わせで覚えていきます。

音声で耳からも覚えやすいようにYouTubeに教材を上げています。こちらです。

また、ゴロ合わせの基本的なルール(規則)についてはこちらを参考にしてください。


[アケメネス朝]
【成立~滅亡】
前550〜前330 紀元前ココを散々治めた王朝アケメネス

【ダレイオス1世】
前522〜前486 コツつかみ縛ろう王朝ダレイオス1世(3代)

[セレウコス朝]
前312〜前63 セレウコス朝何時無残に滅び去る

[バクトリア]
前255頃〜前139 アム川前にココ引割くバクトリア

[パルティア]
前248頃〜後224 によわ後めアル酒ス朝

[ササン朝]
アルダシール1世(成立)
224〜241頃 建国者普通よ強いのアルダシール

【シャープール1世】
〜272 広大な帝国つなシャープール

【ニハーヴァンドの戦い】
642 イスラーム容赦無用ハーヴァンド

【ササン朝滅亡】
651 (むご)終わりのササン朝

*まず、王朝名がはっきりしない場合はテンプレ世界史でばっちりタテ割りの変遷を覚えてしまいましょう。また、首都名を覚えたいときはこのページで対応しています。

[アケメネス朝]


【成立~滅亡】
前550〜前330 紀元前ココを散々治めた王朝アケメネス
*服属していたメディアからは地方統治制度のサトラップ制を受け継ぎ、その他にもアッシリア、新バビロニアと続く『大帝国』の制度・技術の多くを受け継いだ古代オリエント帝国の集大成とも言うべき王朝です。ただ、民族の捕囚政策は受け継がず、ユダヤ人パレスチナに帰し、諸民族の文化の違いには寛容な政策をとったと言われています。

キュロス2世リディア・メディア・新バビロニアを滅ぼし、子のカンビュセス2世エジプトを併合してオリエントを統一し、ダレイオス1世インド・アフガニスタン遠征や南ロシアのスキタイ征討ペルシア戦争を行いました。『ココヲ(550)』と『サンザンオ(330)』です。

ゾロアスター教を保護し、ダレイオス1世などの大王の帰依を受けました

【ダレイオス1世】
前522〜前486 コツつかみ縛ろう王朝ダレイオス1世(3代)
*支配地域を約20の行政区画に分け、それぞれにサトラップ(総督)を置き、各地を結ぶ交通網を整備しました。その上でサトラップの監視情報伝達を担う「王の目」「王の耳」と呼ばれる監察官を派遣しました。絵に描いたような中央集権体制です。『コツつかみ縛ろう王朝』というのはこれのことです。『コツツ(522)』と『シバロー(486)』です。

[セレウコス朝]


前312〜前63 セレウコス朝何時無残に滅び去る
アレクサンドロス3世の死後のディアドコイ戦争後にできた『セレウコス朝シリア』です。アレクサンドロス大王の遠征については別に扱います。この語呂は年代だけに関心を向けた語呂です。『サ(テ)イツ(312)』と『ムザン(63)』です。

[バクトリア]


前255〜前139 アム川前にココ引割くバクトリア
*『年語呂年註』全体を見てもらえばハッキリすると思いますが、ここの語呂合わせは単に年号を覚えるためのものではありません。各用語を丸ごと覚えてしまいます。中央アジアアラル海にそそぐシル川アム川の内、アム川周辺地域、ソグディアナとかマー=ワラー=アンナフルとか申しますが、この豊かなオアシス都市が多い地域をしっかり言葉に出してイメージできるようになるのも、このフレーズのねらいの一つです。ソグディアナは古代のシルクロード貿易で活躍したイラン系ソグド人の名前からきます。マー=ワラー=アンナフルは初め覚えにくかったので『まあ=(笑)=あんな古』と覚えました。

*『テンプレ世界史』では『バクットオオツキクシャグプテフタル』の『バク』トリアです。バクトリアは、セレウコス朝から自立したギリシア人ディオドトスが、アム川周辺に築いた王国です。(建国者名は『出を「ド」とす』です。ドレミの歌みたいな名前ですね)
まさに、アム川の前の領域を割いて(引裂いて)できた国です。調子のいい時代は、上の地図イメージよりもっと北の、アラル海カスピ海南岸あたりまで領土にしていました。ヘレニズム文化のにない手なので、ガンダーラの仏像彫刻の誕生にもかかわっています。

*『前』は紀元前のことですから、続きが『ニココ(255)』と『ヒッサク(139)』となります。

[パルティア]


前248〜後224 によわ後めアル酒ス朝
*中国の史書でパルティアを『安息(あんそく)』というのは、建国者アルサケスの名前からで『アルサケス朝パルティア』と言います。イラン系の王朝です。イラン系ですが、ゾロアスター教を国教とすることはありませんでした。ヘレニズム文化の影響はこの時代色濃く、ギリシア様式の美術や建築がさかんに行われました。貨幣などもギリシア風でゾロアスター教やミトラ教の神々がギリシアの神々の姿で刻印されたりしました。

共和政ローマアルメニアを巡って争った際には、三頭政治で有名なスラと交渉してユーフラテス川を境界とすることで合意。その後の戦いの際には、これまた三頭政治で有名なクラッススの軍を破り、戦死させています。(前53 カルエラの戦い)

*まじめに書いてきましたが、ゴロ合わせは単なる『二日酔い』の話です。すいません。『前に立つと息が酒臭いから、前日に酒飲んだ朝は気をつけろこのアル中野郎』みたいな感じです。『』が紀元前で『ニヨーワ(248)』、『後は』が紀元後で『ツツシ(224)』となります。パルティアで初めて西アジアは紀元をまたぎます。

[ササン朝]


ササン朝ペルシアと言えばまず、有名な3人の帝王の名前を覚えておきましょうササン朝の3帝(youtube)』(ササン朝の君主はシャー・ハン・シャー諸王の王を名乗りました) 一見してアホ臭さもここに極まった感じですが、このフレーズはかなり効きます。基本的な問題ならこの三帝を押さえているだけでも十分対応できますね。

ササン朝ペルシア人王朝で、ゾロアスター教を国教としました。ササン朝中央集権的官僚組織の仕組みや、ササン朝時代に育まれた文化は、後のイスラーム時代にも影響を与え、引き継がれていきました。

アルダシール1世(成立)
224〜241 建国者普通よ強いのアルダシール
パルティアを滅ぼしてその旧領をまるまる引き継いで広大な帝国を築いたのが、アルダシール1世です。で、どんな帝国でも大抵の場合初めは勢いがあるもので、建国者は『強いのが普通よ』という、これは他人が言っていると考えても、本人が言っているととってもどちらでも結構です。『フツーヨ(224)』と『ツヨイ(241)』です。

【シャープール1世】
〜272 広大な帝国つなシャープール
アルダシール1世が築いた『広大な帝国』を引き継ぎ、次代につないだ第二代の王がシャープール1世です。つないだだけでなく軍人皇帝時代のローマと戦い、皇帝ヴァレリアヌスを捕虜にしたという話は有名です。『帝政ローマ年語呂』で扱っています。

*単独で統治を始めたのはアルダシール1世の死後、241年(頃)なので、語呂はシャープール1世が死去した年です。

【ニハーヴァンドの戦い】
642 イスラーム容赦無用ハーヴァンド

【ササン朝滅亡】
651 (むご)終わりのササン朝

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