中国王朝の人口推移

中国王朝の人口推移

前漢・後漢の時代には、中国の人口は6000万人程度であったと考えられています。

これは、昭和初期の日本の人口と同程度です。

ところが、三国時代に入ると一度中国の人口は激減し2000万人以下に至り、生産力が著しく落ちたと言われていて、これが五胡の進入を招き、また、その後の北朝での、均田制による増産政策につながっていくと説明されます。

隋唐の統一王朝の下で、次第に人口は回復傾向を示し、唐の時代には、ほぼもとの5000万人以上にまで戻ったと思われます。

唐末の混乱から宋の時代までは、再び5000万人以下に減少し、元から明の間に6000〜7000万人程度にまで増加します。

清王朝では、多年にわたり中国王朝を苦しめてきた北方の民族を含め、チベット高原やタリム盆地まで東アジアのほぼ全域が支配下に入りました。

この平和の中で、康熙帝『盛世滋生人丁』を定め、1711年丁数(成年男子数)を基準にして、以後に増加した人丁には、課税しないこととし、人頭税(丁税)地税に一本化(実質丁税廃止)して銀納させる『地丁銀制』を打ち出します。

これ以降、課税は土地所有者に対してしか行われなくなりました。

このことが、中国の人口の爆発的な増加を促します。

乾隆帝の治世の1749年には、早くも倍増して1億7000万人を超え、その治世の晩年、1792年には、3億人に達しました。

その後も増加を続け、アヘン戦争後の1851年には4億人以上となっていました。

こうした人口の増加は、新大陸からもたらされたトウモロコシ、サツマイモ、ジャガイモ、などの導入などによって、当初は維持されましたが、さすがに慢性的な農地の不足に陥り、暮らしが貧しくなった民衆の中には盗賊の集団となるものも現れ、こうした社会の混乱から1796年白蓮教徒の乱などの民衆反乱が増加していくことになります。


宋・元・明・清などの歴代皇帝を覚えたい!という方はこちらを覗いてみてください。

*他、中国王朝関連

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→『中国の内乱 覚え方【前後漢晋二唐二清】』ページ

→『中国官吏任用制度と土地制度 覚え方』ページ

→『中国五胡南北朝 付戦国七国と五代』ページ

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