*これは『年語呂年註-世界史版』のひとつです。このページでは、ムガル帝国の歴史の概略をゴロ合わせにそって見ていきたいと思います。
*音声で耳から覚えるためYouTubeに教材を上げています。こちらです。文字だけではリズムをつかみにくいフレーズもスムーズに覚えられます。ぜひ一度聞いてみることをお勧めします。
ムガル帝国年語呂(語呂のみ)
・デリー=スルタン朝成立・滅亡年
『一つマロン(栗)を一つくれ。いざ連れいよいよイーヨ来い。』 |
1206 奴隷王朝成立(〜1290)
1290 ハルジー朝成立(〜1320)
1320 トゥグルク朝成立(〜1414)
1414 サイイド朝成立(〜1451)
1451 ロディー朝成立(〜1526)
・ティムールのインド遠征
1398 ティムールインドをいざ食わん
・シク教創始者ナーナク(生没年)
1469〜1538 ナーナクと等しー報いこの宮で
・バスコ=ダ=ガマがカリカット到着
1498 風吹く方位良くば到着カリカット
・ポルトガルがゴア占領
1510 ポルトガル一個とったとゴア占領
・ムガル帝国成立
1526 バーブル以降にムガル拡大
・バーブル死去
1530 バーブルはムガル拡大以後見れず
・2代フマーユーン
一時ペルシア(サファヴィー朝)へ亡命
1544 フマユンペルシア引越しよ
・デリー奪還
1555 以後ここかためるデリーの王座
・3代アクバル在位期間
1556〜1605 イー心のヒーロー置こうとアクバル即位
・アクバル親政開始
1560 以後群れ鎮めてアクバル親政
・人頭税(ジズヤ)の廃止
1564 アクバルの以降無用の人頭税
・アグラに遷都
1565 新都のアグラに以後向こう
・イギリス東インド会社設立
1600 人群れを海外おしだす東インド会社
・シク教の黄金寺院が完成
1604 黄金の色をした寺院完成す
・5代シャー=ジャハーン在位期間
1628〜58
夢の広庭こーやと5代のシャー=ジャハーン
・イギリスがマドラス(チェンナイ)に要塞
1639 マドラスの道一路割くイギリス人
・タージ=マハル廟完成
1653 愛妃向こーさタージ=マハル
・6代アウラングゼーブ帝在位期間
1658〜1707
顔色が怖いなオーナーアウラングゼーブ
・イギリスがボンベイ(ムンバイ)獲得
1661 イギリスが広む勢いボンベイ獲得
・フランス東インド会社再建
1664 フランスもインドに広むよ植民地
・フランスがポンディシェリ取得
1673 フランスの色んなみんなでポンディシェリ
・シヴァージーがマラータ王国建設
1674 色んな地主でマラータ王国
・シク教第9代グルがデリーで処刑
1675 9代目も色んなことあり殺される
・フランスがシャンデルナゴルに商館移設
1688 広場はいただきシャンデルナゴル
・イギリスがカルカッタ建設
1690 品物を広く送るのカルカッタ
・シク教が軍事組織カールサーを結成
1699 シク教徒広く括ってカールサー
・第10代グル暗殺、聖典がグルとなる
1707 シク教のグルはや人の名を無くす。
・アフガニスタンにドゥラニ朝(ドゥッラーニー朝)成立
1747〜1826ドゥラニ朝いーなよーない?初のロイヤル
・カーナティック戦争
いーな獅子の世やこれ越して子は無敵一番カーナティック戦争
1744〜48 第一次
1750〜54 第二次
1758〜61 第三次
・プラッシーの戦い
1757 フランスの黒星一体何個なんだとプラッシー
・ドゥラニ朝(ドゥッラーニー朝)がマラータ同盟を下す
1761 否む人に一撃食らわすドゥラニ朝
・ハイダル=アリーがマイソール王国の王位簒奪
1761 いーな無比なるハイダル=アリー
・イギリスがベンガル・ビハールの徴税権獲得
1765 否む子おしおきベンガル・ビハール徴税権
・マイソール戦争
1767〜99
否むな禄やれよ、暗れえ国汲々マイソール戦争
『拒否せずに給料(俸禄)払ってやれよ、先は暗いなぁ国の財政は汲々で』という意味。
1767〜69 第一次マイソール戦争
1780〜84 第二次マイソール戦争
1790〜92 第三次マイソール戦争
1799 第四次マイソール戦争
・マラータ戦争
美男なこやつ御子いないやマラータ戦争
1775〜82 第一次マラータ戦争
1803〜05 第二次マラータ戦争
1817〜18 第三次マラータ戦争
・シク王国の成立
1799 王制でいーなと括りシク王国
・イギリス、シク王国と相互不可侵条約
1809 パンジャーブイーや奥だし不可侵条約
・グルカ戦争
1814〜16 ネパールの人は等しー色にとグルカ戦争
・イギリス領セイロン
1815 セイロンの人は以降はイギリス領
・第一次アフガン戦争
1838 イギリスの人ヤーさんやアフガン戦争
・シク戦争
1845〜49 イギリスはイー端っことシク狙う
・インド大反乱(シパーヒーの反乱)
1857 支配者をひっぱたこーなシパーヒー
・ムガル帝国滅亡
1858 権威は壊れてムガル滅亡
・東インド会社解散
1858 本国の総意はこーやと会社を解散
・インド帝国成立
1877 英の人鼻鳴らしインド帝国宣言
註釈
・デリー=スルタン朝成立・滅亡年
一つマロン(栗)を一つくれ。いざ連れいよいよイーヨ来い。
1206 奴隷王朝成立(〜1290)
1290 ハルジー朝成立(〜1320)
1320 トゥグルク朝成立(〜1414)
1414 サイイド朝成立(〜1451)
1451 ロディー朝成立(〜1526)
*デリー=スルタン朝の諸王朝の成立・滅亡年をまとめて覚えます。
王朝名の覚え方は→『北インドの王朝の変遷』
『ハル爺とグルさ、いいドロday』
*(参考)『1206〜1290 奴隷王朝位置ズレむ一つくれ』→『北インド王朝年語呂』
・ティムールのインド遠征
1398 ティムールインドをいざ食わん
*中央アジアから西アジアにかけて、史上三番目の広大な帝国を築いたティムールはこの年トゥグルク朝インドに侵入しました。
*王都のデリーは陥落し、略奪・破壊の限りを尽くし、ティムールは引き上げました。
*このインドの地に後にティムールの子孫バーブルが侵入しムガル帝国を建国します。
→『イスラーム王朝年語呂』
・シク教創始者ナーナク(生没年)
1469〜1538
ナーナクと等しー報いこの宮で
*シーク教ナーナクはこう覚えます。
→『しくしく泣くからシーク教ナーナク』
*河で水浴び中に『この世を超えた真理』に到達したと信じた詩人ナーナクは、インドから西アジア各地を巡り、宗教の違いを超えた『唯一の真理』と慈悲の心を説きました。
*ナーナクの育ったパンジャーブ地方は、ヒンドゥー教徒とイスラーム教徒の居住地のちょうど境目に位置したので、この事がナーナクの宗教思想に強く影響を及ぼしています。
*晩年はパンジャーブで信者と共に働く平等な共同体を作って生活しました。こうして北西インドのパンジャーブにシク教が定着して行きます。
*然し後にアウラングゼーブ帝による激しい弾圧が行われ、シク教徒は武装集団となって行きます。
・バスコ=ダ=ガマがカリカット到着
1498 風吹く方位良くば到着カリカット
→『ポルトガルの王朝年語呂』
・ポルトガルがゴア占領
1510 ポルトガル一個とったとゴア占領
→『ポルトガル王国年語呂』
*ポルトガル王マヌエル1世は、アルブケルケ提督に対して、ホルムズ・アデン・マラッカの占領を命令しましたが、ゴアについては命令はありませんでした。
それでも、提督がゴア占領に踏み切ったのは、同地のヒンドゥー教徒からイスラームの支配から解放してほしいと嘆願されていたからでした。
*その後、ゴア占領は本国の貴族会議で承認され、以降ポルトガル領ゴアの中心地となり、アジアにおけるポルトガル領土を治める副王の所在地となります。1961年まで、ポルトガルにより維持されました。
・ムガル帝国成立
1526 バーブル以降にムガル拡大
*ティムールの5代目のお孫さんに当たるバーブルが、中央アジアでの王朝復興をあきらめて、アフガニスタンからインドに侵入し建国しました。
*この侵入の際にロディー朝との間に戦われたのが『パニーパットの戦い』です。
パニーパットの戦いでは、バーブル率いる軍隊はロディー朝の軍隊の半分以下であったものの『鉄砲』や『大砲』といった銃器の使用によってその勝負を決しました。
日本の『長篠の戦い』や、セリム1世のオスマン帝国とサファヴィー朝の間で戦われた『チャルディラーンの戦い』などとも比較される戦いです。
*この年はロディー朝の滅亡年です。
・バーブル死去
1530 バーブルはムガル拡大以後見れず
*バーブルが死に、息子の皇太子フマーユーンが跡を継ぎます。
*フマーユーンが父から引き継いだ支配地域はアフガニスタンの一部と北インドの一部の限られた地域に過ぎませんでした。
然し、フマーユーンは才気ある勇敢な皇帝であり、戦争を重ね、ロディー朝の残党勢力を始め、周辺地域の勢力をことごとく封じ込めました。
*ところが、もとから遊楽を好む性格で、快楽生活にふけるようになり、手に入れた領域の支配を怠ったため、その間に力をつけたアフガニスタンのシェール=シャーの勢力の拡大を許すことになりました。
・2代フマーユーン
一時ペルシア(サファヴィー朝)へ亡命
1544 フマユンペルシア引越しよ
*フマーユーンは、アフガニスタンのシェール=シャーの軍勢に大敗を喫して、少数の兵士と共に命からがら逃げのびて、ペルシアに亡命することになります。
*そして、アフガニスタンから北インドにわたる広大な領域は、シェール=シャーの物となります。(スール朝)
つまり、ムガル帝国はここで一旦終了しているのです。
・デリー奪還
1555 以後ここかためるデリーの王座
*シェール=シャーの死後、サファヴィー朝の支援を受けたフマーユーンは、息子のイスラーム=シャーを倒して再び、デリーを回復しました。
*この翌年、フマーユーンは、階段を降りる際に衣の長い裾に足をとられて転げ落ち、頭を強打して死んでいます。
・3代アクバル在位期間
1556〜1605
イー心のヒーロー置こうとアクバル即位
*いわゆる『アクバル大帝』の即位年です。人頭税(ジズヤ)の廃止の他、アグラへの遷都、官僚制による中央集権の確立を行いました。
*わずか13歳で即位したアクバルの初期の治世は、摂政バイラム=ハーンのもとでの不安定なものでした。この政治的な混乱をみてスール朝の残党勢力が、王朝復活を目指して兵をあげ、一時は、デリーやアグラも占領されてしまいますが、第二次パニーパッドの戦い(1556)によってこれを再び回復しました。
・アクバル親政開始
1560 以後群れ鎮めてアクバル親政
*成長したアクバルは摂政バイラム=ハーンを脅威とする様になり、アクバルはバイラム=ハーンを追放し、親政を開始します。
*彼は、北インドの独特の多様な社会を反映して様々な階層から人材を求め、北インドのムスリムや地元のラージプート、ヒンドゥー教のバラモン、シーア派ペルシア人などが政治に参加しました。
・人頭税(ジズヤ)の廃止
1564 アクバルの以降無用の人頭税
*宗教的な融和政策の現れとして、ムスリム以外に課せられるイスラームの慣習法であるジズヤを廃止しました。
*アクバルは、地元のラージプート勢力を取り込むため、彼らの領地からの収入を認め、ラージプート出身の妻を持ちました。
・アグラに遷都
1565 新都のアグラに以後向こう
*デリーに並びアグラに宮殿がおかれアクバラーバードと呼ばれました。
*現在、ユネスコの世界遺産になっている赤砂岩でできた『赤い城』アグラ城塞は、アクバル時代のこの年に着工され8年後に完成しました。シャー=ジャハーンまで三代の居城となりました。
・イギリス東インド会社設立
1600 人群れを海外おしだす東インド会社
*初めに、オランダが、ジャワ島へ船団を送り、直接アジアから大量の物産を輸入することに成功しました。このことで、それまでの自分たちの東方貿易の利権が脅かされることを恐れたイギリスの貿易商人たちの組織、レヴァント会社の成員らが中心となり、航海ごとに出資を募りその投資額に比例して利益配分を行う、株主を中心とした会社組織『東インド会社』が設立されました。
*彼らは、エリザベス1世にアジア貿易についての特許を願い出て12月31日に正式に特許状が与えられました。
*第一回の航海は、翌1601年1月に行われました。
・シク教の黄金寺院が完成
1604 黄金の色をした寺院完成す
*シク教の第5代グル(師)のグル=アルジュンの時代にパンジャーブ地方の中心部に完成しました。
*アクバル大帝の死後、ムガル帝国と対立する様になり、翌年(1605)、ムガル帝国の弾圧で第5代グルが殺され、反イスラーム・反ヒンドゥーの姿勢が次第に強くなります。
*第6代グルは、全シク教徒に対して宗教的な支配権のみならず、世俗的な支配権も持つことを宣言しました。
・5代シャー=ジャハーン在位期間
1628〜58
夢の広庭こーやと5代のシャー=ジャハーン
*シャー=ジャハーンとは『世界の皇帝』を意味します。
*アクバル大帝の孫でムガル帝国の第5代君主、インド=イスラーム文化の最盛期の君主で、多くの美術や建築が生まれました。
*愛妃ムムターズ=マハルの死後は、愛欲に溺れた生活を送って晩年は病床に着き、息子たち兄弟の政争に巻き込まれて、アウラングゼーブにアグラ城塞の『囚われの塔』に幽閉されて亡くなりました。
・イギリスがマドラス(チェンナイ)に要塞
1639 マドラスの道一路割くイギリス人
*マドラスは南インド東岸の地です。イギリス東インド会社が、貿易を望む領主から土地の譲渡を受け、商館をおくことになり、港市を守るため、翌年までにセント=ジョージ要塞が建設されました。
*マドラスは背後に綿花の生産地帯があり、地元の職人を集めた綿織物の生産と輸出の拠点として急速に発達していきました。
・タージ=マハル廟完成
1653 愛妃向こーさタージ=マハル
*シャー・ジャハーンが、愛妃であるムムターズ=マハルの死後、妃を偲んで作られたのが、有名な『タージ=マハル廟』です。
*あの世に逝ったので、立派な御殿は建っても愛妃は『向こう(の世界)』さという意味です。
・6代アウラングゼーブ帝在位期間
1658〜1707
顔色が怖いなオーナーアウラングゼーブ
*ムガル帝国の領土を最大まで広げた君主です。
と同時にその治世晩年は、分裂傾向が高まり、帝国支配の弱体化が進んだ時期でした。
*アウラングゼーブはイスラーム教スンナ派に深く帰依し、曽祖父以来の他宗教への融和政策を捨てて、各地のヒンドゥー寺院を破壊したり、人頭税(ジズヤ)の復活を行ったりしました。
*その為、各地に反乱が起こり、アウラングゼーブは、生涯その対応に追われることになります。
*帝の死後、反乱軍との戦争は常態化し、国庫は底をつき、ムガル帝国の支配地域への影響力は急速に衰え、各地に独立勢力の台頭を許していまいます。
・イギリスがボンベイ(ムンバイ)獲得
1661 イギリスが広む勢いボンベイ獲得
*チャールズ2世とポルトガルのカタリナ王女(キャサリン)の結婚の際の『持参金』の一部として、ボンベイがイギリスに譲られました。
*対岸に良港があることから、この地はイギリス王室が、イギリス東インド会社に賃貸する形で、以降イギリスの商業拠点となって行きます。
・フランス東インド会社再建
1664 フランスもインドに広むよ植民地
*元々フランス東インド会社は、1604年にアンリ4世の勅許のもと、英蘭のインド貿易独占に対抗するために作った特権会社です。マダガスカル島を中継港として、盛んにインド貿易を行うはずでしたが、順調に行かず活動停止の状態となっていました。
*ルイ14世時代、重商主義者の財務総監コルベールがこれを再組織し国王に認可された国営の貿易会社でした。
・フランスがポンディシェリ取得
1673 フランスの色んなみんなでポンディシェリ
*南インドの東岸の地で、マドラスの南にあたります。前年に現地の藩王(ラージャ)から、この地を与えられ、1673年にここにインド貿易の拠点を築きました。以降、フランスは内陸部に勢力を拡大し、ポンディシェリはフランスの代表的な中継貿易基地として発展していくことになります。
*シャンデルナゴルが経済的中心地となったのに対して、ポンディシェリには政治的な中心地としての役割がありました。
・シヴァージーがマラータ王国建設
1674 デカンの西の色んな地主でマラータ王国
*デカン高原北西部のヒンドゥー教地主勢力がシヴァージーのもと結集してムガル帝国への抵抗を行い、マラータ王国を建国しました。
*アウラングゼーブ帝はマラータ勢力の討伐に全力を傾けた為、一時は衰退しましたが、アウラングゼーブ帝の死後(1707)は、反対にムガル帝国が衰えていきます。
*勢力を盛り返したマラータ王国は、宰相を中心とした政権となっていきますが、ヒンドゥー教徒の有力諸侯を取りまとめ、マラータ同盟を結成してイギリスの侵攻に対しても抵抗して行くことになります。
*本当は『地(じ)』で『4』はこのサイトでは禁じ手なのですが、今回はどうかお許しください。『地主』が入れたかったのです。
・シク教第9代グルがデリーで処刑
1675 9代目も色んなことあり殺される
*第9代グルの時代、シク教はインド各地に布教活動を展開しようと試みました。9代グルはイスラーム教への改宗を拒否したバラモンたちの助命嘆願を行ったことで、アウラングゼーブ帝により捕らえられ、デリーで処刑されました。
*この事件がきっかけとなり、第10代グル=ゴービンド=シングの教団改革が行われることになります。
・フランスがシャンデルナゴルに商館移設
1688 広場はいただきシャンデルナゴル
*商館が、現在のシャンデルナゴルに移された年です。ベンガル地方にはすでに1673年にガンジス川の支流のフグリー川沿いに商館がおかれていました。
*フランス領インドの経済的中心として栄えました。
*南インド東岸(カーナティック地方)には、マドラス(英)とポンディシェリ(仏)、ベンガル地方には、カルカッタ(英)とシャンデルナゴル(仏)が隣接している状況は、当時の英仏のライバル関係をよく表しています。
これは、窓に石を投げるイメージで『窓ポン!カシャン!(マド-ポン、カ-シャン)』と覚えましょう。
・イギリスがカルカッタ(コルカタ)に商館をおく
1690 品物を広く送るのカルカッタ
*イギリスは当初ベンガル地方の他の地に商館を置いていましたが、アウラングゼーブ帝の怒りを買ってその地を逐われ、南のこの地に移り商館をおきました。
*その後、ウィリアム要塞が建設され、カルカッタはイギリスのベンガル進出の拠点として、また貿易都市として栄えることになります。
*プラッシーの戦いの後に置かれた『ベンガル知事』が1773年『ベンガル総督』に格上げとなり、1833年に『インド総督』となります。つまり、インド統治の中枢機関として成長していくことになります。
(参考) 1773 いーな波乗りベンガル総督
(参考) 1833 統治下の人はさんざんインド総督
・シク教が軍事組織カールサーを結成
1699 シク教徒広く括ってカールサー
*第10代グル=ゴービンド=シングは、教団内の権力構造を一切廃止し、また武装集団である『カールサー』を組織します。
*他にも、後世に残る禁酒・禁煙制などを教義に加え、組織の強化に努めました。
*これにより、シク教団は半独立国の色彩を持つようになり、ムガル帝国の弱体化に伴って、ラホールを中心にその勢力を広げて行きます。
*以降、カールサーのシク教徒の男性名には『シング(獅子)』が付きます。
・第10代グル暗殺、聖典がグルとなる
1707 シク教のグルはや人の名を無くす。
*第10代グル=ゴービンド=シングが暗殺され、息子はムガル帝国との戦争で死んでいた為、以降は『聖典』がグルとされる様になります。
・アフガニスタンにドゥッラーニー朝成立
1747〜1826ドゥラニ朝いーなよーない?初のロイヤル
→『イスラーム王朝年語呂』
*アフガニスタンにドゥッラーニー朝が成立し、以降北インドにも侵入を繰り返すようになり、シク教徒のパンジャーブ地方でも破壊・略奪が行われました。
*この中でシク教の軍団は12のミスルを形成し、その首長らは各地に城塞をつくって支配する様になります。
・カーナティック戦争
いーな獅子の世やこれ越して子は無敵一番カーナティック戦争
1744〜48 第一次
1750〜54 第二次
1758〜61 第三次
→『第二次英仏百年戦争年語呂』
・プラッシーの戦い
1757 フランスの黒星一体何個なんだとプラッシー
→『第二次英仏百年戦争年語呂』
*カーナティック戦争の語呂は、イギリスの王家の紋章が『獅子(ライオン)』であることにかけています。このヤマを越したら子どもの代にはイギリスは無敵一番かな?ティックな戦争ということです。
*マドラスのイギリス東インド会社とポンディシェリのフランス東インド会社の勢力争いから生じた戦争です。地元の太守は、陸上での戦争を禁止したので、英仏の戦争は海上で行われましたがその内にこれは無視される様になり、戦闘は陸上に持ち込まれました。
*第一次カーナティック戦争では、ポンディシェリ知事でもあったフランスのインド総督デュプレクスが、傭兵隊に近代的装備を行いイギリス軍を相手に海戦でも優位に戦い、また陸戦ではマドラスを占領しました。
*第二次カーナティック戦争は、地元の太守の後継者争いに英仏が介入することで起こりました。フランスはデュプレクスのもと、傀儡の太守を立て勢力を広げましたが、危機感を抱いたイギリスが攻撃に出ることで交戦状態となりました。
イギリス軍はクライヴの指揮のもと優勢に戦いを進めました。
更に、フランス本国が戦争状態でないにもかかわらず勝手に戦争を起こしたとしてデュプレクスは解任されて本国に召喚されてしまいます。
*プラッシーの戦いは、フランス東インド会社の支援を受けたベンガル太守軍とクライヴ率いるイギリス東インド会社軍との戦いです。英仏はこの時ヨーロッパ、アメリカと世界的な規模で戦争を行いました。各戦争の対応は『第二次英仏百年戦争年語呂』を見てください。
*プラッシーの戦いでは、ベンガル太守軍はイギリスに対して圧倒的に数でまさっていましたが、イギリスによるベンガル軍内部の裏切り工作などにより敗北しました。
*この戦いはインドの覇権をめぐる争いでのイギリスの最終的勝利を決定付けたものと言われます。また、イギリスがベンガルの徴税権を獲得する契機となりました。
*第三次カーナティック戦争は、ベンガル地方のプラッシーの戦いとほぼ並行してカーナティック地方で起こりました。先の『窓ポン!カシャン!』の関係を頭に入れておくと分かりやすいと思います。この戦争でも、イギリス軍はフランスを圧倒し、ポンディシェリは占領されました。
・ドゥッラーニー朝がマラータ同盟を下す
1761 否む人に一撃食らわすドゥラニ朝
*アフガニスタンに1747年に成立したドゥッラーニー朝がインドに侵入し、パニーパッドでマラータ同盟との間に戦争を交えます。
*結果、マラータ同盟側が大敗を喫し、以降宰相の統率力はすっかり薄れてしまい、各諸侯は自立傾向を示すようになりマラータ同盟は衰退していきます。
*『否む人』とはドゥラニ朝の侵攻にやめて!と拒む人々、要するにマラータ同盟のことです。
・ハイダル=アリーがマイソール王国の王位簒奪
1761 いーな無比なるハイダル=アリー
*マラータ同盟を宗主としていた、南インドのヒンドゥー教国マイソール王国の王位を、将軍ハイダル=アリーが奪いとってしまいました。
*彼はイスラーム教徒であったため、領内はイスラーム教への改宗が強制され、周辺のヒンドゥー教・キリスト教徒の居住地域にも侵略が行われました。
・イギリスがベンガル・ビハールの徴税権獲得
1765 否む子おしおきベンガル・ビハール徴税権
*プラッシーの戦いに続き、前年の1764年に起こったブクサールの戦いで、またもベンガル太守軍を破ったイギリス東インド会社は、ムガル皇帝からベンガル・ビハールなどの徴税権を獲得します。
*これは、行政・司法権を含むものであったので、結果、ムガル皇帝やベンガル太守は、名目上の存在にすぎなくなりました。
*以降、東インド会社は本格的に貿易商から、インドの植民地支配の機関となっていきます。
・マイソール戦争
1767〜99
否むな禄やれよ、暗れえ国汲々マイソール戦争
『拒否せずに給料(俸禄)払ってやれよ、先は暗いなぁ国の財政は汲々で』という意味。
1767〜69 第一次マイソール戦争
1780〜84 第二次マイソール戦争
1790〜92 第三次マイソール戦争
1799 第四次マイソール戦争
*これらは長いですが、音声を聴いて耳にに残る様にして下さい。
*マイソール戦争は、まとめると1767〜99で『否むな汲々マイソール戦争』となります。
・マラータ戦争
美男なこやつ御子いないやマラータ戦争
1775〜82 第一次マラータ戦争
1803〜05 第二次マラータ戦争
1817〜18 第三次マラータ戦争
[第一次マイソール戦争]1767〜69
*イスラーム化したマイソール王国に対し、宗主国のマラータ同盟と、北で接するハイデラバード王国、及び二国を援助するイギリス軍が攻撃を加えることで始まりました。
*ハイダル=アリーのマイソール軍は、マラータ同盟やハイデラバード王国と外交交渉を行って講和に持ち込み、的をマドラスのイギリス軍に絞った為、結局、イギリス軍も妥協し講和を結びました。
[第一次マラータ戦争]1775〜82
*ドゥラニ朝に対するパニーパッドでの敗北以降、マラータ同盟では、各諸侯が宰相の地位をめぐって争う混乱状態にありました。
*イギリスはその中の有力諸侯に、領土の割譲を条件に兵力を提供するという形で介入することになります。
*当時、アメリカ独立戦争(1775〜)が始まり、1778年からフランスも参戦します。これに呼応してインドでも、フランス軍はイギリスの敵対勢力側に立って参戦しました。
*1767年よりハイダル=アリーの宣戦によって第二次マイソール戦争が始まり、イギリスはほとんど得るものがなく、この戦争を終えます。
[第二次マイソール戦争]1780〜84
*フランスやマラータ同盟と結んだハイダル=アリーのマイソール王国がイギリスに宣戦することで始まりました。
*ハイダル=アリーは終始、優勢に戦いを進めましたが1782年に死去し、その子ティプー=スルタンが王国を引き継ぎます。
*1783年、フランスがアメリカ独立戦争の講和条約であるパリ条約でイギリスと講和しました。
然し、ティプー=スルタンは、その後の戦いにも勝利し有利な形で講和条約に持ち込むことができました。
(参考)1783 フランスの人悩みの末パリ条約
→『アメリカ合衆国年語呂』
[第三次マイソール戦争]1790〜92
*ベンガル総督チャールズ=コーンウォリスのもと、マイソール王国との全面戦争を準備したイギリス軍は、マイソール王国がヒンドゥー教勢力を攻撃したことを理由として宣戦しました。
*マラータ同盟・ハイデラバードもイギリス軍側で参戦し、結果ティプー=スルタンは降伏しました。
*賠償金の支払い、領土の割譲の他、二人の王子が人質とされました。
[第四次マイソール戦争]1799
*ベンガル総督リチャード=ウェルズリーはティプー=スルタンが、再びフランス共和国と盛んに同盟を模索していることを怖れて総攻撃を行うことを決定しました。
*結果、マイソール軍は大敗しティプー=スルタンは戦死しました。
*イギリスによる南インドの支配は完成し、同地域は藩王国とされ、イギリスの従属下に組み込まれました。
[第二次マラータ戦争]1803〜05
*ベンガル総督リチャード=ウェルズリーはマラータ同盟の宰相と諸侯間の対立につけ込み、宰相を援助する見返りとして、軍事保護条約であるバイセン条約にサインさせることに成功します。この条約は、宰相の外交権や交戦権を奪い取り、マラータ王国を保護国化する内容でした。
*その内容には、領土の割譲も含まれていた為、諸侯たちはこれに反対して兵を挙げました。
*対して、イギリス軍はこれらの諸侯を個々打ち破っていき、それぞれの諸侯と軍事保護条約を結んで、藩王国としてイギリスの従属下に組み込みました。
[第三次マラータ戦争]1817〜18
*イギリスに対して反感を抱く諸侯たちが結束して起こした戦争でしたが、イギリス軍により制圧されました。
*以降、多くの諸侯は、藩王として名目上の自立を与えられながら、イギリス支配下に組み込まれ、宰相の領地のほとんどはイギリスの直轄下に入りました。
・シク王国の成立
1799 王制でいーなと括りシク王国
*この前年、パンジャーブ地方に侵入しラホールを占拠したドゥラニ朝に対して、12のミスルの一つの首長であるランジート=シングが反撃を行い、ラホールを取り戻しました。
*ランジート=シングはラホールで王を宣言し、ここにシク王国が成立します。
*ランジート=シングは周辺のミスルを悉く併合したのを始め、その領域はパンジャーブ地方を越えてカシミール地方など、北西インド一帯に及びました。
・イギリス、シク王国と相互不可侵条約
1809 パンジャーブイーや奥だし不可侵条約
*イギリス東インド会社は、当時『パンジャーブの虎』と呼ばれた、シク王国の君主ランジート=シングと相互不可侵条約アムリトサル条約を結びました。
・グルカ戦争
1814〜16 ネパールの人は等しー色にとグルカ戦争
*タライ地方の領有権をめぐり、イギリスとネパールのグルカ朝との間に戦われ、グルカ軍は善戦したものの敗れました。
*結果、スガウリ講和条約が結ばれ、ネパールはイギリスに対してタライ・ダージリン・シッキムなど、国土の約1/3を割譲しました。タライ地方の放棄の見返りにネパールは毎年20万ルピーを受けとることになりましたが、後にイギリスはこの地方をネパールに返還し支払いも停止しました。
*講和条約には、ネパール兵はイギリス軍傭兵に志願できるという条項が加えられ、以降、グルカ兵はインド大反乱から、第一次、第二次大戦に至るまで、常にイギリス側に立って戦うことになります。
・イギリス領セイロン
1815 セイロンの人は以降はイギリス領
*フランス革命時に、オランダがフランスに占領されたことで海外のオランダ植民地もフランス領となりました。
*これを理由としてイギリスはオランダ領セイロンを攻撃し、1802年のアミアン和約を経て、ウィーン会議の1815年に正式にイギリス領となりました。
→『第二次英仏百年戦争年語呂』
*イギリスは更に内陸のキャンディ王国を攻略し、1815年、キャンディ条約でこれを保護下におきました。更にイギリスはこの2年後には、完全にセイロン島全土を支配下に置きます。
・第一次アフガン戦争
1838 イギリスの人ヤーさんやアフガン戦争
*当時、ロシアの南下を警戒していたイギリスは、アフガニスタンに関心を示し、1838年先んじてこの地域に進出し、バーラクザイ朝との間に第一次アフガン戦争が起こりました。
*この翌年、1839年にシク王国の君主ランジート=シングが亡くなります。王位を継いだ息子は5歳の子どもであり、シク王国内は権力闘争で内紛に陥ります。
*第一次アフガン戦争には、シク王国もイギリス側について参戦していましたが、4年後の1842年にイギリス東インド会社軍はアフガニスタンに大敗を喫し、甚大な被害を受けました。
*イギリスは、アフガニスタンから混乱状態が続くシク王国のパンジャーブ地方に狙いを移し、ここにシク戦争が起こることになります。
・シク戦争
1845〜49 イギリスはイー端っことシク狙う
*実際には1845年とその翌年まで(第一次)と、
1848年から1849年まで(第二次)2年・2年の二つに分けられます。
*第一次シク戦争は、シク王国の国境に軍隊を配備し挑発を行ったイギリス軍が、シク側のカールサーに先に仕掛けさせることで始まり、結果、シク王国は敗北、ラホール条約が結ばれ、シク側がカシミールを放棄し、ここに藩王国を置くことを認めました。
*第二次シク戦争は、パンジャーブで起きた反英の反乱に対し、イギリス側が軍隊を出動させることで起こりました。
結果、シク王国側が敗北し、領土のパンジャーブ地方はイギリスの直轄地に組み込まれました。
この戦争により、イギリスによるインドの植民地化は完成しました。
→シク王国の滅亡年(1849)
・インド大反乱(シパーヒーの反乱)
1857 支配者をひっぱたこーなシパーヒー
*シパーヒーは、イギリス東インド会社が組織したインド人傭兵たちです。上層カーストに属するヒンドゥー教徒や、上流階級に属するイスラーム教徒からなっていました。
*彼らの間に、イギリスで開発された新式の銃の薬包に、牛脂や豚脂を使っているという噂が流れます。銃の火薬充填時にこの薬包を噛み切ると、彼らは宗教上口にしてはいけない『牛脂』や『豚脂』を自動的に口にしてしまうことになります。このことへの反発がきっかけとなって、北インドの都市メーラトでシパーヒーの反乱が起こったとされます。
*メーラトのシパーヒーはデリーに進軍、名ばかりの皇帝となっていたムガル帝国の皇帝、バハードゥル=シャー2世を担ぎ上げます。イギリス直轄地をはじめ、各地の旧藩王国領もこれに加わり、それまでのイギリス支配への不満が一気に噴出し、民衆の反乱が全インドの2/3までも広がりました。それは、インドで最初の、イギリス支配に対する民族規模での反抗だったので『インド大反乱』と言い、インドでは『第一次インド独立戦争』と言っています。
*然し、インドの蜂起は各地での連携を欠き、また内部対立もありました。これに対してイギリス側は、インドの旧支配階級を懐柔する政策をとり大半の藩王国を取り込むことに成功します。一方で、中国から兵をインドに移動させた他、ネパールのグルカ兵やパンジャーブのシク教徒を巧みに動員して、これらを鎮圧しました。
・ムガル帝国滅亡
1858 権威は壊れてムガル滅亡
*デリー陥落によりインド大反乱が鎮圧され、ムガル帝国の皇帝バハードゥル=シャー2世は逃亡しましたが、捕らえられてビルマに流刑となり、これによって、ムガル帝国は名実共に滅亡することとなりました。
・東インド会社解散
1858 本国の総意はこーやと会社を解散
*それまでイギリス本国は、東インド会社に委託する形でインド統治を任せて来ましたが、インド大反乱は、東インド会社による統治の限界を認識させるきっかけとなりました。
*それに先立ち、すでに東インド会社のインド・中国貿易での独占権は廃止されており、商事会社としての機能は失っていました。
*本国政府は1858年、インド統治改善法を可決し、東インド会社が持つ全ての権限をイギリス国王に委譲させます。
*これによって、ほぼ、日本の江戸時代と重なる250年の長期にわたる東インド会社の活動は終了することとなりました。
・インド帝国成立
1877 英の人鼻鳴らしインド帝国宣言
*東インド会社の解散によって、以降イギリスはインドを直接支配下に置くことになります。
1877年、ディズレーリ首相のもとヴィクトリア女王をイギリス国王兼インド帝国皇帝とする英領『インド帝国』が成立しました。
*本国には『インド省』が設置され、イギリス人インド総督がインド『副王』として統治に当たることになりました。
*今回、マラータ戦争・マイソール戦争等々の説明については、サイト『世界史の窓(http://www.y-history.net/)』『wikipedia』の該当記事を参考にさせていただきました。