渤海国年語呂【年号ゴロ合わせ】

*これは年語呂年註-世界史版のひとつです。このページでは、渤海国の歴史の概略をゴロ合わせにそって見ていきたいと思います。

*音声で耳から覚えるためYouTubeに教材を上げています。こちらです。文字だけではリズムをつかみにくいフレーズもスムーズに覚えられます。ぜひ一度聞いてみることをお勧めします。


・則天武后が周を起こす
690〜705 則天武后は無窮を願って周の名起こす

・靺鞨の大祚栄が、遼東に『震国』を建国
698 遼東に向くは靺鞨大祚栄

・唐から『渤海郡王』として冊封を受ける
713 唐からも問題ないさ渤海国

・二代『大武芸』在位期間
719〜37 大武芸なー行くで沿海州

・渤海使が日本に派遣される
727 日本にも『あ、つながろ』と渤海使

・三代『大欽茂』在位期間
737〜793 大キンモーとか皆泣くさ

・上京竜泉府(じょうけいりゅうせんふ)に遷都
755 長安が手本なここと上京竜泉府

・四代『大元義』在位期間
763〜794 泣くさ泣くよと大元義(だいげんぎ)

・十代『大仁秀』在位期間
818〜830 渤海の範囲やや見れ大仁秀(だいじんしゅう)

・十一代『大彝震』在位期間
830〜57 はさんおこーな大彝震(だいいしん)

・黄巣の乱
875〜884 やな子パッパし黄巣の乱

・唐滅亡
907 中国の先は暗えーな唐滅亡

・契丹国成立
916 あまねく披露契丹国(遼建国)

・渤海国が滅亡する
926 契丹に国無にされる渤海国

註釈

*渤海国を建てた靺鞨(まっかつ)は、ツングース系の民族です。高句麗とは同系統の民族に属すると考えられています。
渤海国は、靺鞨族の首領、大祚栄(だいそえい)が、靺鞨族や唐に滅ぼされた高句麗の遺民・残党を率いて建国しました。

・靺鞨の大祚栄が、遼東に『震国』を建国
698 遼東に向くは靺鞨大祚栄
*語呂は、遼東半島に『ムクワ(698)』です。
*則天武后の時代、契丹が起こした暴動による混乱に乗じて、靺鞨族は、高句麗の残党を率い、唐(周)の都督府の支配を逃れて高句麗の故地に進出し、ここに『震国』を建国しました。
*唐(周)は、初めこの『震国』に討伐軍を送りますが、結局これを認めて冊封体制に取り込む道を選びます。
(参考)690〜705 則天武后は無窮を願って周の名起こ→『中国王朝年語呂(仮)

・唐から『渤海郡王』として冊封を受ける
713 唐からも問題ないさ渤海国
*大祚栄は、震国を『渤海国』と改め、前年に即位した唐の玄宗から冊封を受けます。
*『ナイサ(713)』です。
*『渤海国王』に冊封されたのは三代の『大欽茂(だい きんも)』の時代でした。

・二代『大武芸』在位期間
719〜37 大武芸なー行くで沿海州
*父の大祚栄の死去により即位。唐の元号を用いるのをやめ、独自の元号を定めて、唐と共同で契丹を攻める計画を持ちかけられても、これを拒絶するなど、独立の傾向を強めます。
そして、北の沿海州朝鮮半島の北部にまで勢力を伸ばし、新羅の北上を阻むとともに、北の靺鞨諸族を支配下に組み入れて行きました。

・渤海使が日本に派遣される
727 日本にも『あ、つながろ』と渤海使
*唐・新羅との外交関係の悪化に対して、大武芸はこれらの勢力を牽制する目的で、遣日本使を送り、日本との軍事同盟を模索しました。
*ゴロは『ナーツナ(727)』です。日本に使節を送った際に、渤海が、渤海と日本は先祖が同じであると主張したのは有名です。
*大武芸の死後、唐との関係がよくなったため、軍事同盟としての役割は薄れ、純粋に文化的・経済的な交流となっていきます。
*日本側は、これを渤海の朝貢ととらえていたため、渤海がもたらす貢物に数倍の返礼を行わねばならず、それは、渤海に大きな利益をもたらしました。
*日本との外交関係は、渤海の滅亡まで続きました。

・三代『大欽茂』在位期間
737〜793 大キンモーとか皆泣くさ
*『大キンモー!』とか言われたら、みんな泣くよねというふざけた語呂です。
*『ミナ(37)〜ナクサ(793)』です。
*父の大武芸の政策を改めて、大欽茂は唐に恭順を示して、国内の文治政策の充実を図りました。これにより、初めて唐から『渤海国王』として冊封を受けました。

・上京竜泉府(じょうけいりゅうせんふ)に遷都
755 長安が手本なここと上京竜泉府
*大欽茂が唐の長安城を模範として造営した、都城制に基づく典型的な長方形の『』です。中学生の歴史の教科書にも、日本の平安京などと並べて載せてあることがあります。775年に遷都を行いました。以降、一時を除き、滅亡まで上京竜泉府は、渤海国の首都として存続しました。
大欽茂のもとでは、この他にも、日本の律令制の導入に比し得る唐化政策が推し進められました。

・四代『大元義』在位期間
763〜794 泣くさ泣くよと大元義(だいげんぎ)
大元義(だいげんぎ)は大祚栄の子であり、大欽茂までの国王の血統ではありませんでした。大欽茂には、数人の息子が居ましたが、王位継承争いの結果大元義が即位しました。
*大元義は、疑い深く無慈悲な性格であり、即位後には、その反対派を殺害したため、わずか数ヶ月で反対派の手により殺害されました。
*それで『泣くさ泣くよ』という語呂です。

*以降、渤海国は大欽茂の嫡系が国王を継ぎますが、二十数年間、5代にわたって短命な君主が続き、大欽茂の嫡系の王統は絶えてしまいます。

・十代『大仁秀』在位期間
818〜830 渤海の範囲やや見れ大仁秀(だいじんしゅう)
大仁秀は、大祚栄の弟の血統に属する国王で、国勢が衰退した渤海を盛り返した『中興』の人物です。
*当時は、すでに渤海国王に従属していた各部族が自立傾向を高め、王権が弱体化していました。
*宗主に当たる唐王朝もまた、安史の乱以降の混乱の中で、周辺地域への支配力が低下していました。近接する黒水州の都督府が廃止されたのをきっかけとして、大仁秀はこの地域の諸部族に対して武力で攻撃し、これらの地域を、渤海国の府州として取り込むことに成功しました。
大仁秀のもとで、渤海国は再び強力となり、周辺の北東アジア諸国から『海東の盛国』と呼ばれる大国に成長し、大きな影響力を持つ様になりました。
*渤海国の『範囲やや大』きくなったから『見れ』という語呂です。

・十一代『大彝震』在位期間
830〜57 はさんおこーな大彝震(だいいしん)
*省こうとも思いましたが一応『はさんでおこう』かなと思い入れました。
大彝震は、大仁秀の嫡孫に当たる人で、父親がすでに死んでいたので即位しました。
*国の勢いが盛り返したことを背景に、大彝震は再び『文治政策』に切り替えて、唐との関係を強化し留学生を送り文物の招来に努めると共に、国内では中央集権を進め、各地域を府州として統治する仕組みを整えました。
また、唐の『募兵制』を取り入れて常備軍を整えました。

*以降、9世紀の間は、大彝震文治政策路線は守られて、渤海国は比較的安定した時代を送ります。この間、日本への遣使も継続されました。

・黄巣の乱
875〜884 やな子パッパし黄巣の乱

・唐滅亡
907 中国の先は暗えーな唐滅亡

*9世紀後半の黄巣の乱によって渤海の宗主国である唐王朝は崩壊し、乱の鎮圧後も軍閥の下でどうにかその体裁を保っている地方政権に過ぎなくなりました。

*然し、唐が衰微した後も、渤海国は唐に多くの留学生を送り、10世紀に入った第15代国王時代、朱全忠後梁を建国した後にも、計6回の使節を送ったと記録されます。

・契丹国成立
916 あまねく披露契丹国(遼建国)

*当時、遼河上流域にいた契丹族(キタイ)耶律阿保機(アブーチ)が、唐滅亡の907年、契丹可汗(カガン)の位に就きました。
耶律阿保機は、更に勢力を伸ばし、916年間には『天皇帝』を称して元号を『神冊』としました。正式な国号は『大契丹国(イェケ・キタイ・オルン)』です。
*契丹は耶律阿保機のもと、西はモンゴル高原東部、東は渤海国に対して侵攻を行います。

渤海国でも、西部に軍事力を集中するなど、対策を行いますが、契丹の勢いを防ぎ切れないと悟り、後梁や周辺国の援助を請いましたが、当時の中国は『五胡十六国』時代の争乱で、渤海国を援助する余裕はありませんでした。
さらに朝鮮半島の新羅が、契丹と結んだことで、渤海国は苦境に陥り、結局、200年間続いた渤海国も契丹に滅ぼされることになります。

・渤海国が滅亡する
926 契丹に国無にされる渤海国
*926年、上京竜泉府が陥落し、国王が降伏したことで渤海国は滅亡しました。
結果、渤海国の国王は15代で終わりました。日本の幕府の『15代の法則』に当てはまっていて興味深いです。
*滅亡後、同地には『東丹国』が置かれ、耶律阿保機の長子である耶律突欲がこの地に封じられました。

渤海国はその歴史を通じて、多くの留学生を唐に送り込み、その文化・制度を取り入れました。留学生の中には科挙に合格し官吏となる者もありました。渤海に遺された『』の旧制度は、契丹国が中国北部を支配する、最初の征服王朝となっていく上で、参考にされたと言われます。

渤海の遺民は、その後、何度も再興を目指して蜂起したものの、その都度、鎮圧されその中には高麗に亡命する者もありました。
後に、女真族(黒水靺鞨)が『金王朝』を建てるに及び、旧地の渤海の遺民は厚遇され、官職を得たり、王家に嫁ぐ者も出ました。
その後、彼らは『満州族』を形成していくことになります。

*渤海国の歴史を通して見ると、当時の日本が、渤海新羅などと共に、東アジアの『』帝国の衛星国家であったことがよく分かります。

*始まりは、唐の建国と朝鮮半島の百済・高句麗の滅亡にあり、唐が滅亡して程なく渤海、次いで新羅滅亡します。

日本でも、新羅滅亡935年に、最初の武士の大規模な反乱と言われる、承平の乱(平将門の乱)が起こり、以降大きな時代の転換点を迎えていきます。

 

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