モン人(ペグー人)の王朝年語呂

テンプレ世界史モン人おまけページです。まだ、覚えてない方は、解説だけでも読んでおくとスムーズに進めます。(クリックで開きます)
このページでは各王朝の成立した年と滅亡した年をゴロ合わせで覚えていきます。

音声で耳から覚えやすいようにYouTubeに音声教材をあげています。こちらです。また、ゴロ合わせの基本的なルール(規則)についてはこちらを参考にしてください。


:成立滅亡年

ドヴァーラヴァーティー
*母音の数を指を折って数えてみると、ド・ヴァー・ラ・ヴァー・ティーで5つ。
500年代(6世紀)から始まり。
もう一度、ド・ヴァー・ラ・ヴァー・ティーで10。
1000年代(11世紀)に滅亡。

ハリプンチャイ王国
750頃〜1292 ハリプンチャイなーこれ1つと成す?
*『ひとつの国とします?どうします?』と尋ねている感じです。

タトゥン王国
9世紀〜1057 怒って来るぜ、畳んどこーな。タトゥン王国
*これは単に『タトゥン』と『畳(たと)ん』を掛けているだけなんですが洗濯物を『ちゃんと畳んでないとまた母ちゃんが怒って部屋までくるぜ』と相談している兄弟姉妹の会話みたいな感じです。『くるぜ』が『9世(クーゼ)』になってます。

ペグー王朝
1287〜1539 モン人一つ以後咲くペグー王朝
*『一つの花』というのがペグー王朝のことで以後モン人の国は失われてしまいました。現在はタイやビルマに居住しています。

・基本は以上です。あとは個人の判断で参考にしてください。


*タイ人やビルマ人と混血していますが、現在800万人ほどがモン人を自称しています。
*紀元前1600年ごろにはインドシナに進出。
*流れ的に入れた方が理解しやすいので『ラヴォ王国』を追加しています。

[スワンナプーム王国]


*現在のタイの中部(チャオプラヤ川河口付近)にありました。
*伝説では、紀元前300年頃に建国したと言われ、紀元前200年頃にアショーカ王が送った伝道者によって上座部仏教を受け入れたとされます。→仏教寺院を建設しモン文字をつくる。

6世紀〜11世紀頃まで繁栄
→これをドヴァーラヴァーティ王国という。
*もともと6世紀〜11世紀頃までの仏教遺物に見られる美術様式をドヴァーラヴァーティ様式と呼んだことから『ドヴァーラヴァーティ』の名前で知られています。
チャオプラヤ川沿いにあったモン人の都市国家(2km〜1kmの楕円形の都市)の集合体。
→港市国家の一種とされる。

[ラヴォ王国]


*ラヴォ王国は、初めはドヴァーラヴァーティ都市国家群の1つから始まったとされています。
→7世紀に真臘(クメール)が進出
→これに屈したドヴァーラヴァーティの都市国家群を合わせて『ラヴォ』とする。
*最盛期は現在のタイ南半の全領域、タイ北部のハリプンチャイ王国の領域と合わせると、ほぼ現在のタイの領域すべてに当たります。
*モン人の王国なので上座部仏教を信仰しました。

・クメール王国に従属
1005〜1022 戦後ラヴォの人を普通にクメール支配
*一時クメール人(カンボジア)の支配下に入ります。

・ビルマ(パガン朝)の侵入→勢力均衡が成立
1087 ラヴォにとって一応やな人パガン王
*パガン朝の侵入を受けましたがラヴォのナライ王はこれを撃退しました。
*ラヴォをめぐりクメール対ビルマの対立関係ができ、かえってラヴォの存在感が増すことになります。侵略者なので『一応やな人』ですが、結果的には好条件にもなったということです。

*ナライ王の時代
ラヴォ→アヨダヤに遷都 (初期アユタヤ)
→西部のドヴァーラヴァーティの残りの都市群を吸収。
*宗教的にはクメールとの同化が進む→大乗仏教・ヒンドゥー教を受け入れる。

・ラヴォが北宋承認のもと独立
1155 北宋にラヴォが「いいここ独立よ」
*ラヴォ王国は、北宋に使節を送り独立の承認を得ました。


・スコータイ朝の成立
1239 育んだ人にサンキュースコータイ
→その後、スコータイのラームカーヘン王(3代)の対外侵略によってラヴォ王国は領土を減らしラヴォやアユタヤを奪われるまでに至ります。


・アユタヤ王国へ併合
1388 ラヴォ王国いざパッパとアユタヤ移行。
*新興のタイ系アユタヤ王国が成立し、ラヴォの旧領はその中に吸収されてしまいます。

[ハリプンチャイ王国]


・成立〜滅亡
750頃〜1292 ハリプンチャイなーこれ1つと成す?
*現在のタイ北部にありました。首都はランプーンです。チェンマイの南方約30kmにあります。

・クメールがラヴォ王国を占領
1005〜1022 戦後ラヴォの人を普通にクメール支配
*タイ中部のラヴォがクメールの支配下におかれ、モン人勢力の中心が北部のハリプンチャイ王国に移動します。タイ中部を再びモン人勢力下に置こうとするハリプンチャイ王国は、以降ラヴォをめぐりクメールと戦闘を繰り返します。

・コレラ流行
1050 ハリプンの人をコレラが苦しめる
*コレラ流行によって大きな被害を受け、ビルマ南部のペグーやタトゥン王国の首都であるマルタバンに移動した人々がでました。
*この間にタイ人の進入がますます盛んになり後々の禍根となっていきます。

・ラヴォ王国支配
1130頃〜50頃 クメールの人々去れこれモンの土地
*クメール支配下のラヴォ王国に侵攻ししばらく支配しましたが奪い返されてしまいました。然しこうした中でラヴォにも、クメール支配から脱しようとする動きが出てきます。

・ラヴォが北宋承認のもと独立
1155 北宋にラヴォが「いいここ独立よ」
*ラヴォ王国は、北宋に使節を送り独立の承認を得ました。

13世紀初頭まで、寺院などの建築・文化は盛んでハリプンチャイ王国最盛期。

・ハリプンチャイ王国滅亡
1281 タイの国1つ入ってハリプン滅亡
*タイ系のマンラーイ王がラーンナー王朝を建てハリプンチャイ王国を滅ぼしました。
*これ以降、モン人の活動の中心はペグー(南ビルマ)に移ることになります。

[タトゥン王国]
・成立〜滅亡
9世紀〜1057 怒って来るぜ、畳んどこーな。タトゥン王国
*エーヤワディー川下流域(下ビルマ)にありました。
*首都はタンルイン河口のマルタバンです。ペグーとは、マルタバン湾を挟んで対岸にあります。
*最終的にパガン朝(ビルマ)に征服されました。

[ペグー王朝](ハンターワディー王朝)
・成立〜滅亡
1287〜1539 モン人一つ以後咲くペグー王朝
*エーヤワディー川下流域(下ビルマ)です。首都ペグーはエーヤワディー川河口近くにあります。
*モン人の最後の王国です。港市国家に分類されています。タトゥンを含みますがタトゥン王国との関係については不明です。
*建国者ワーレルー(スコータイの後押しで建国)
*「ワーレルー・ダンマタ」→ビルマ現存最古の法典を作りました。

・ペグー(パゴー)に遷都
1369 名にちなむ場所にいざ向くペグーに遷都



・タウングー朝に併合
1539 ペグの人降参悔しいタウングー。
→ビルマの地方政権となりました。

・ペグー再興
1740 ペグー再興イーナ寄れ
*前年ペグー知事が反乱を起こし、重税に苦しむ住民がペグー王を立てて更に別の反乱を起こします。*結果、タウングーの王都アヴァを陥れ一時的に再興を果たします。

・コンバウン朝に併合
1757 ペグの人泣こーな今日からコンバウン。
→ビルマ領となる。
*モン人の故国喪失の遠因は、1000年頃からタイ人やビルマ人の南下進入が始まったことに求められる。
→その後、大半のモン人は南下を続けて、ビルマとタイの国境付近まで移動。

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