*これは『年語呂年註-世界史版』のひとつです。このページでは、スペイン王国の歴史の概略をゴロ合わせにそって見ていきたいと思います。
*音声で耳から覚えるためYouTubeに教材を上げています。こちらです。文字だけではリズムをつかみにくいフレーズもスムーズに覚えられます。ぜひ一度聞いてみることをお勧めします。
*語呂フレーズだけ確認したい場合、王名を覚えたい場合はこちらのページを参照してください→『スペイン国王①(付大航海時代)【語呂確認用】』
【スペイン】
(カスティリャ) (アラゴン)
イサベル フェルナンド
*(結婚: 1469)→スペインの成立(1479)
<覚え方> 『カスティリャをいざ食べる』 『食べたら減るなんど』 『まだ結構アーラゴン』 |
・スペイン王国成立
1479 重要な国の統合スペイン王国
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・グラナダ陥落→レコンキスタ完了
1492 グラナダも落として等しー国とする
①イサベル
・コロンブス(ジェノヴァ生まれ)を「インド」派遣
→バハマ諸島サンサルバドル島に到達。
1492 コロンブス、インドに等しー国に着く
+
②フェルナンド2世(スペイン国王)企画
[西インド探検航海]
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・アメリゴ=ヴェスプッチ(伊) 1497 大陸名の人よく波越え新大陸 *あとは2年ごとで区切ると第4回まで行けます。 1497〜1498 第1回カリブ沿岸 1499〜1500 第2回ブラジル北部 ↓ *ポルトガル国王マヌエル1世は、1500年にカブラルが漂着した『ブラジル』の領有権を主張、カブラルの発見した土地が、スペインが探検していた大陸の一部かどうか確認を行うためマヌエル1世はアメリゴ=ヴェスプッチを派遣します。 詳しくは→『ポルトガル年語呂』 ↓ 1501〜1502 第3回 南緯50度に到達 1503〜1504 第4回 南米北東部を調査 *1503年に新大陸であることを論文に発表 |
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・イタリア戦争
1494 どっちの人も欲の世の中イタリア戦争
*フランス国王が小国家の集合だったイタリアに侵攻し、これを阻もうとするハプスブルク家の神聖ローマ皇帝との間で戦争となりました。
*これは、時代を超え形を変えて現れた東西フランクの西欧世界での覇権争いの再燃と言えます。
*結局、次のカルロス1世(カール5世)の代には終わらず、終結はフェリペ2世の時代までもつれ込みました。
③カルロス1世
*神聖ローマ皇帝としてはカール5世です。『軽いかご』と覚えて引き出せばOKです。
・即位
1516 即位後は憩い無な人カルロス1世
*これは、フェルナンド5世の没年です。フェルナンドとイザベルの間に男子は生まれませんでした。カルロス1世は、娘がハプスブルク家に嫁いでできた子です。
*『憩いのときがない』というのは言い過ぎですが、カルロス1世が受け継いだ『大帝国』は、既に新しい時代に突入し加熱していた西欧世界に浮き上がった巨大な旧世界の残影のようなものでした。カルロス1世は膨大な額の借金までして、この大帝国の維持に力を注がなければなりませんでした。
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・神聖ローマ皇帝即位
1519 以後ひとくくりのハプスブルク
*フランスのフランソワ1世と選挙戦を争い、結果的に選帝侯らの全票を獲得して帝位につきました。フランソワ1世は、その在位期間を通じてカルロス1世の宿敵となっていきます。
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・マゼラン(葡)世界周航出発
1519 マゼラン以後行く世界一周
*スペイン国王カルロス1世の命令により出発しました。ルターが破門された1521年にフィリピンに到達。マゼランはそこで死亡し、翌年帰ったのは当初の5隻のうちの1隻のみでした。
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・ヴォルムス帝国会議にルターを呼び出す
1521 一向に言うこと聞かんとルターが破門
*これはその前年、ルターがローマ教皇レオ10世の破門の警告を無視し、教会文書を焼き捨てたことを受けて、正式にルターを破門した年の語呂です。
*同年にヴォルムス帝国会議が開かれたので一緒に覚えます。帝国会議でカール5世はルターに自説の撤回を求めますが、ルターが拒んだため、これを異端とし神聖ローマ帝国の法の保護外としました。
*然し、その後ルター派の信仰は神聖ローマ帝国内に急速に広まっていきます。
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・コルテスがアステカ帝国を滅ぼす
1521 スペインの人ゴッツイ乱行アステカ滅亡
*スペインがメキシコを征服しました。
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・ローマ劫略(略奪)
1527 教皇領に遺骨が並ぶローマ劫略
*イタリア戦争の過程で、教皇にフランスと結ぶ動きがあったことをきっかけとして、カール5世の軍隊がイタリアに侵攻、教皇領のローマで破壊行為、殺戮、略奪、強姦などを行った事件です。
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・第一次ウィーン包囲
1529 一向に苦もなくウィーンを包囲する
*これは、オスマン帝国側から見た語呂です。『一向に苦もなく』包囲できたのは、数において到底及ばないオーストリア軍が、はじめから籠城したからです。実際にはオーストリア軍の頑強な抵抗の末、ウィーン陥落を免れました。
*直接のきっかけは、空位になったハンガリー王位を巡って後継争いが起こり、その一方がスレイマン1世に援助を申し込んだことで、ハプスブルク家とオスマン帝国との間に対立の構図が生じたことでした。
*然しその背景には、ルターを匿っていたザクセン選帝侯やオスマン帝国と同盟を組むことで、カール5世包囲網を築こうとしていたフランソワ1世の存在がありました。
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・シュマルカルデン同盟
1530 以後去れ旧教シュマルカルデン
*神聖ローマ帝国内のルター派の諸侯と諸都市によって反皇帝の同盟が組織されました。領内のカトリック教会財産は没収され、司教らは追放されました。
*カール5世は、次期ザクセン選帝侯の椅子を約束するという政治工作によって、当時の選帝侯の弟モーリッツを味方につけることに成功します。緊張が高まり、最終的に戦争に突入します。
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・ピサロがインカ帝国を滅ぼす
1533 インカ滅びて以後散々の先住民
*最終的にスペイン王国は、ブラジル以外の南アメリカを領土とすることになります。
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・プレヴィザの海戦
1538 西欧の人降参やプレヴィザ海戦
*エーゲ海やイオニア海の島々を占領下に置きつつあったオスマン帝国艦隊に対して、カール5世は、ローマ教皇・ヴェネツィア共和国との連合艦隊で打撃を与えようとしましたが、敗退し地中海の制海権を失いました。
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・ポトシ銀山発見
1545 引越しこの地にポトシ銀山
*ラテン=アメリカの銀はスペインにとどまらずヨーロッパ全体の物価を引き上げ『価格革命』をおこします。
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・シュマルカルデン戦争
1546 信仰自由に移行しろよなシュマカデ戦争
*カール5世とシュマルカルデン同盟との戦争です。カール5世は戦況を有利に進め、同盟の主導者を捕虜とし、ルター派を異端とする暫定規定を呑むことを迫るところまで行きます。
*が、先のモーリッツがカール5世のやり方を好まず反旗を翻したことでカール5世は逃亡、事態は急展開します。
*カール5世が妥協せざるをえなくなったことでアウグスブルクの和議に向かっていきます。
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・アウグスブルクの和議
1555 新旧の人ここ来いやアウグスブルク
*各領邦がカトリックとルター派のいずれを採用するかは諸侯の判断に委ねられることで一応の和議が成立しました。
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・退位
1556 身を引こコロッと退位する
*健康問題もあり、カール5世は生前自ら退位を決意しました。
*神聖ローマ帝国は弟に、スペインとネーデルラントは、息子のフェリペ2世に相続しました。
④フェリペ2世(子)
1556〜1598
退位まで一国晴れて夜はなし
*即位年はカール5世の退位年なので、フェリペ2世は退位年のみです。この語呂は『太陽のしずまぬ国』という意味です。まあ、本当はそういう意味じゃないんですがね。
*フィリピンの名は、フェリペ2世から来ています。参考→ 1542 以後世に残せ俺の名を
*父以上にカトリックの盟主としての使命感を燃やして行動しました。
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・カトー=カンブレッジ条約(イタリア戦争終結)
1559 いー?ココくんなよカトカン条約
*財政の困窮によってすでに戦争の続行が困難となってきたハプスブルク家、ヴァロア朝、双方がイタリア戦争の終結に合意しました。スペインのフェリペ2世、フランスのアンリ2世、イギリスのエリザベス1世の間で結ばれました。
*フランスはイタリアを放棄し、代わりにロレーヌなどを得ました。
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・レパントの海戦
1571 オスマン勢力以降ないって訳じゃない
*ローマ教皇領・スペイン王国・ヴェネツィア共和国を主力とする神聖同盟の連合艦隊が、オスマン帝国艦隊をギリシアのレパント沖で破った海戦です。
*西欧がオスマン帝国に大勝した初めての大海戦でした。心理的には西欧にとって大きな勝利でしたが、オスマン帝国は間もなく形勢を建て直したので、地中海では依然としてオスマン帝国側が優位を保ち続けました。
*ガレー船が主力をなした最後の大海戦です。
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・同君連合
1580 ポルトガル以後は王様フェリペ2世
*エンリケ1世死後、リスボンを占拠しポルトガルを同君連合としました。もちろん、海外のポルトガル領も引き継いだためスペインは広大な領土を持つことになります。『太陽の沈まぬ国』と言われる理由です。つまり24時間広い領土のどこかで日が拝めるという訳です。
↓
・アルマダの海戦
1588 以後ワヤになる無敵艦隊
*ネーデルラント北部諸州を支援していたイギリスを討つため無敵艦隊を派遣しましたが敗北しました。
*その後、スペインに更に打撃を加えようとしたイギリスの作戦は失敗しスペインも形勢を建て直したため、制海権を奪うまでには至りませんでした。
*フェリペ2世はスペインの全盛期の国王であり、絶対主義の代表といえる君主に数えられていますが、その治世の間に何度も財政破綻を経験しています。スペインはその経済をアメリカ大陸からもたらされる金銀とネーデルラントの税収に頼り、国内産業の育成を怠っていました。この事が原因でフェリペ2世以降、スペインは衰えていくことになります。
⑤フェリペ3世(子)
【没年】
~1621 3世で疲労に至るスペイン帝国
*生来体が弱かったため、家臣に政治を任せることが多く『怠惰王』と言われます。
↓
・三十年戦争
1618 被害地広いわ三十年戦争
⑥フェリペ4世(子)
【没年】
~1665 芸術ひろむ子フェリペ4世
*政治的には見るべき業績は余りありませんが、芸術面で、ベラスケスやスペイン領ネーデルラントのルーベンスなどの才能ある宮廷画家を保護しました。
↓
・ポルトガル王政復古
1640 スペインの介在無用とジョアン4世
*ポルトガル王政復古戦争により、同君連合は解消され新たな国王が立ちました。
↓
・ウェストファリア条約
1648 他の国の人無視はダメウェストファリア
*30年戦争が終結し、ネーデルラントの独立を承認しました。
⑦カルロス2世(子)
【没年】
~1700 イーナまるまるブルボン家
*病弱で後継ぎがなかったため、姉が嫁いでいたフランスのルイ14世の孫をスペイン国王にすると遺言しました。但しこれは、フランス王位継承権の放棄が条件でした。
[スペイン=ブルボン家]
⑧フェリペ5世: ルイ14世の孫
→フェリペ4世の曾孫
*1700年にスペイン王位継承
・スペイン継承戦争
1701〜1713 勝手な人なお人々難渋さ
*当初、フェリペ5世のスペイン王位継承はフランス王位継承権の放棄が条件でした。
ところが、ルイ14世は、フランス王位継承権を放棄しないまま、孫をスペイン王位に就かせました。ここにフランス・スペインの同君連合の可能性が浮上し、イギリス・オランダ・神聖ローマなどがこれに反発、対仏大同盟を組んで、フランスに宣戦布告しました。
↓
*結果的に、イギリスとの間にユトレヒト条約(1713)、神聖ローマ皇帝との間にラシュタット条約(1714)が結ばれ、領土の割譲や、フランスと合同しないことなどを条件に、フェリペ5世の王位継承が認められました。
*『勝手な人』とは太陽王ルイ14世のことです。茶化した語呂ですが、実際には『専制(我がまま)』であることは、この時代の君主の義務であったという側面もあるでしょう。
→『フランス国王年語呂』
⑨カルロス3世(子)
1759~88 カルロス3世イーナ高級やわ思想
*スペインの啓蒙専制君主と言われます。フランスの行政・経済制度を取り入れるなど改革に取り組みました。
・ポーランド継承戦争
1733~35 非難さんざんさーこの上はと継承戦争
*スペイン継承戦争で失ったシチリア・ナポリを、即位前のポーランド継承戦争で奪い返し1735年にシチリア王、ナポリ王に即位しました。これが後の両シチリア王国となります。
・七年戦争
1756 七年戦争人七年殺しあう
・アメリカ独立戦争
1776 イーナなろうーよ独立国
*七年戦争ではフランスと同盟を組んで参戦し北米のフロリダを失いましたが、独立戦争では独立派の側に立って参戦しフロリダやミノルカ島を奪回、国際的地位を向上させました。
⑩カルロス4世(子)
【退位】
~1808 後継ぎの人はおやおやカルロス4世
*凡庸な国王であったとされます。政治は王妃と宰相のドゴイにまかせっきりでした。
*宮廷画家ゴヤが活躍し多くの絵画を残しています。
・フランス革命
1789 イーナ約束人権宣言
*当初、フランス共和国に対して組まれた第一回対仏大同盟に加わり参戦しましたが敗戦し、フランスと単独講和します。その後、今度はフランス側に立ってイギリスに対し宣戦布告しましたが、トラファルガーの戦いによってスペイン海軍は前艦隊を失いました。
*王太子フェルナンドは、自由主義の改革派に担ぎあげられ、カルロス4世を退位させ、フェルナンドを新王とするようナポレオンに働きかけるという計画に加担します。結果、逮捕されたフェルナンドは父母に服従し、改革派を簡単に裏切りました。
*政情不安の中、国民の暴動が起き、カルロス4世は退位し、フェルナンド7世が即位します。
⑪フェルナンド7世(子)
*フェルナンドは1808年に即位しましたが、すでにスペイン王室へのナポレオンの信用は失われており、ナポレオンの考えはスペインの直接支配に移っていました。フェルナンドは退位させられ、ナポレオンの兄ジョセフがスペイン王として即位しました。
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・スペイン独立戦争
1808~1814
*同年の1808年にマドリードで国民の反乱が発生し、フランスと交戦状態に入ります。その後ナポレオンがロシア遠征に失敗したことで、スペインのフランス軍は駆逐され、戦争中に制定された憲法に基づく政治を行う約束でフェルナンド7世が復位しました。
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(参考)1814 対仏の人はいよいよパリ占領 / 化け物の退治祝いよウィーン会議
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*ところが、復位後のフェルナンドはすぐに約束を反故にし、かつての絶対主義に戻そうとする反動的な政治を行いました。自由主義を求める国民は再び蜂起し、戦争中に制定された憲法を復活させる、立憲革命を起こしました。フェルナンドは捕らえられると彼らに服従します。
*然し、ウィーン体制を崩壊させる恐れがあるスペインの立憲革命は諸外国に受け入れられず、神聖同盟の介入にあい、自由主義政府は打倒され、革命は結局挫折してしまいます。
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・リエゴ将軍の処刑
1823 王に逆らう人は罪よとフェルナンド
*再び復位したフェルナンドは革命の主導者を処刑し、恐怖政治はその後数年間続きました。
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*革命に挫折したスペインは以後、長い政治的混乱の時代に入ることになります。こうした本国の政治的不安定の中で、中南米のスペイン植民地は次々と独立を遂げていきました。