*これは『年語呂年註-世界史版』のひとつです。このページでは、ビザンツ帝国の歴史の概略をゴロ合わせにそって見ていきたいと思います。
*音声で耳から覚えるためYouTubeに教材を上げています。こちらです。文字だけではリズムをつかみにくいフレーズもスムーズに覚えられます。ぜひ一度聞いてみることをお勧めします。
【ビザンツ帝国】
・ユスティニアヌス
【在位】
527〜65 大帝の即位後に成ろーこの大帝国
*一時的にローマ帝国の旧領を回復した『大帝』と呼ばれる皇帝です。
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・ササン朝のホスロー1世と和議
532 和議申し込みお子さんに
*即位前からビザンツ帝国はササン朝とアルメニア・メソポタミアの領土を争っていました。
*ササン朝の前帝が亡くなり、子のホスロー1世が即位した翌年にユスティニアヌスはホスロー1世と和議を結びます。西方への影響力の拡大のためです。
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・ローマ法大全完成
533 これまでの法律こみさローマ法大全
*長いローマ法の歴史の集大成として、これまでの法制・法学説『コミ』で成立したということです。
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・ヴァンダル王国を滅ぼす
534 ヴァンダル王国降参よ
*かつて栄えた『カルタゴ』を首都としていたゲルマン国家の一つヴァンダル王国を滅ぼしました。
*ゲルマン国家の討滅は、彼らがキリスト教異端の『アリウス派』の国家であることに求められます。
→『ゲルマン人の大移動語呂①』
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・ハギア=ソフィア聖堂完成
537 立派にこさえな大聖堂
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・ホスロー1世アンティオキア占領
540 こしーお子さんホスロー1世
*西方遠征で守備が手薄になった隙を突いてホスロー1世は小アジアに侵攻しアンティオキアを占領。多くの捕虜をクテシフォンに連れ去りました。
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・東ゴート王国を滅ぼす
555 ここゴートの居場所じゃないとユスティニアヌス
→『ゲルマン人の大移動語呂③』
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・ホスロー1世と50年の和議
561 和議好む人50年
*以後50年間の和平を約しました。
・ヘラクレイオス1世
【在位】
610〜41 指揮官治むとするのがよいと軍管区
*まず、軍管区制(テマ制)を行った皇帝として覚えます。
*イスラーム勢力の進出により、小アジアから撤退した軍隊に管区(テマ)を割り振り、帝国の防備に当たらせたことから始まります。
*皇帝直属である軍司令官に、軍管区(テマ)の行政・司法権が与えられ、指揮下の兵士には土地が分け与えられ小土地所有者となりました。彼らは『屯田兵』として帝国の軍事・経済を支えることを期待された訳です。『屯田兵で手間(テマ)がヘラ(減ら)クレイオス1世』ということですね。
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・イスラーム勢力のエジプト侵攻
639 ビザンツの後むさ苦しいイスラム支配
*この皇帝の時代にイスラーム教が成立し、イスラーム勢力の急速な拡大が始まっています。
*『むさ苦しい』のはどこの支配でも同じですが、あくまで覚え方です。
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・ウマイヤ朝コンスタンティノープル包囲
673 ビザンツの胸先刃の首都包囲
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・ウマイヤ朝コンスタンティノープル包囲
717~18 問題はないなイーワとまた包囲
・レオン3世
714〜41 偶像破壊も悪気はないよ良い人よ
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・聖像禁止令
726 レオン3世何ムシ返し偶像禁止
*イコノスクラム(聖像破壊)
[ねらい]
① 偶像崇拝を非難するイスラーム教に対抗するため。
② 反対が予想される教会・修道院領を没収する口実になる。
→当時、教会・修道院に寄進された土地は課税対象にならず、徴兵も免除されていました。
→よって、これらを抑え込むことは、帝国の財政難対策と、軍隊を構成する自立した農民層を確保することにつながります。
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*東方での偶像禁止という『正論』の徹底は、未だ東方と分離していない西方のローマ教会周辺にもその影響を及ぼします。
→聖像肯定派と否定派に分かれて争う。
*ローマ教会はこれに反発しました。(ゲルマン人への布教に聖母子像などを積極的に利用していたため)
→ランゴバルド王国(568〜)を利用し否定派を抑圧。
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*歴史を追って次第に東西両教会の教義や礼拝形式などで見解の相違が大きくなりました。
→ローマ教会の分離独立の動き→『ローマ=カトリック年語呂』
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・皇太后テオドラが聖像崇拝復活
843 テオドラがイコンはよさげと聖像解禁
*ビザンツ帝国では、イコン(聖画像)の信仰を認めることで最終的に決着しました。
・ウラディミル1世の改宗
988 急やわ改宗偶像破壊
*スラブのキリスト教改宗を進めたことは、ビザンツ帝国が後世に与えた影響力の一つと言われます。→『ロシア皇帝(大公)早覚え完成』
・ヨーロッパ・キリスト教会東西分裂
1054 東西常世の破門状
*ローマ=カトリックと完全に分裂したことで、ギリシア正教が正式に成立したことになります。
*直接関係はありませんが、この後テマ制に代わり貴族に領地を与えるプロノイア制が広がっていくので、一緒に覚えておきましょう。
・セルジューク朝が小アジア占領
1071 盗んなイーとこ小アジア
*ビザンツ帝国は、当時セルジューク朝の激しい攻撃にさらされていました。
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・アレクシウス1世がローマ教皇に支援要請
1095 聖戦行ってくれるもん説く公会議
*クレルモン公会議の語呂です。十字軍派遣は、ウルバヌス2世が、ビザンツ帝国側から受けた救援要請が始まりでした。
*実際には、東ローマ救済の呼びかけは、西欧の国王・騎士・民衆の何れの階層の心も動かさず『聖地エルサレムの奪回』という目標が示されることで初めて『熱狂』が生み出されました。
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・小アジアに逃れ亡命国家ニケーア帝国建設
1204〜61 いつお城居座れゆーたラテン王国
*これは、第4回十字軍のコンスタンティノープル襲撃によって作られた『ラテン王国』の語呂です。→『中世十字軍年語呂』
*裏には遠征資金と輸送を請負ったヴェネツィア商人の暗躍がありました。彼らは商売がたきのビザンツ帝国を地中海周りの商業圏から排除したい思惑があったのです。
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[再興]
・ニケーア帝国による首都奪還(1261)
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【滅亡】
1453 滅亡に等しー降参コンスタンティノープル陥落
*これ以前よりオスマン帝国に領土を奪われて縮小し続けていました。
*オスマン帝国により要害の首都コンスタンティノープルを攻略されて最終的に滅亡しました。
〈皇帝教皇主義〉 *ビザンツ帝国(東ローマ帝国)では、レオン3世の時代に皇帝が教会の首長を兼ねる『皇帝教皇主義』が確立しました。これは、ギリシア正教のコンスタンティノープル総主教の任免権や、その他の聖職者の叙任権を皇帝が一手に握ったということです。 *ちょっと聞くと、俗権の皇帝が宗教までも支配しようとする理不尽な体制のように見えます。が、そもそもキリスト教は、かつてローマ帝国の国教として採用され、国教の待遇で扱われていたのですから、専制君主である皇帝が帝国の『国教』を主導をするようになることは本来、そこまで不当なことではないとも言えます。 *寧ろ、西ローマ帝国が滅亡した後、かつての五本山の一つであった一ローマ教会の一『ローマ司教』が西ヨーロッパ世界の宗教指導者として特別な地位を確立し、延いては飛び抜けた宗教的権威に成長していったことの方が『特殊』であったとも言えます。 *つまり、ビザンツ帝国側から見れば、皇帝がローマ帝国の『国教』の最高権威であることの方が元々正当であり、西ローマ帝国が滅亡して皇帝が不在になった以上、西側世界も『唯一の皇帝』であるビザンツ皇帝に従うべきであるという言い分になります。 *ビザンツ帝国の勢力が強かった時代は、この様な『正論』に対してローマ教会も一定の配慮を行っていました。 然し、ローマ教会は、次第にビザンツ帝国からの独立を不可欠と考えはじめ、政治的(軍事的)な保護者(つまり用心棒)を模索し、最終的にフランク王国のカール大帝の戴冠によってそれが実現することになりました。 |