*『テンプレ世界史ーチベットビルマ系 六詔~南詔~大理国』のおまけページです。まだ、覚えてない方は、解説だけでも読んでおくとスムーズに進めます。(クリックで開きます)
*このページでは各王朝の成立した年と滅亡した年をゴロ合わせで覚えていきます。
*音声で耳から覚えるためYouTubeに教材を上げています。こちらです。文字だけではリズムをつかみにくいフレーズもスムーズに覚えられます。ぜひ一度聞いてみることをお勧めします。
・六詔
→『詔』はタイ語の王(チャオ)の意味と言われる。六つの『国』に分かれていた。
*場所は吐蕃(チベット)の右下(南東)
*チベット・ビルマ系ロロ族の皮羅閤(ヒロコー)が唐の後押しで六詔を統一する。
・南詔
【成立】
738 雲南王、冊封なさば南詔建国
*唐から『雲南王』に封ぜられたことをもって南詔の建国とみなす。
① その後、勢力を拡大して西南の交易ルートをおさえる。→唐と利害対立
③ 吐蕃(チベット)と同盟(吐蕃の冊封を受ける)→唐軍を破る(タラス河畔の戦い頃:751)
⑤ 吐蕃(チベット)安史の乱(755)に乗じて一時長安占領
⑥ 唐は吐蕃を抑えるため南詔を懐柔。唐と南詔会盟→ウイグルと交戦中の吐蕃攻撃。
⑦ 唐と吐蕃の勢力が減衰するなか、独立して唐、東南アジアを荒らす。
【南詔王皇帝名乗る】
859 南詔は、八国の王と皇帝名乗る。
→大礼国と号する。(最盛期)
*『八国(ヤコク)』はたくさんの国、広い国といった意味です。
*翌年、ベトナムの安南都護府を攻略→唐は黄巣の乱(875~884)の最中で対処できず。
【唐皇帝の娘を降嫁】
883 唐、南詔のパパさんとなる
→南詔懐柔のため、皇帝の娘を降嫁させる
【南詔滅亡】
902 王室のクマに付け入り南詔滅亡
→結局、唐から送り込まれた漢人宰相の専横により、王室が形骸化。
→後継ぎを殺し、王室800人殺害。→滅亡
*その後、大長和・大天興・大義寧など短命政権続く。
チベット系ペー族
*ペー族は現在200万人ほど存在(中国雲南省大理ペー族自治州)
・大理国
→段思平が大理国を建国。段思平はタイ系白蛮(ペー族)の出身。
【成立】
937 みんな腐んな大理建国
【宋の冊封を受ける】
1117 大理国、宋も認めて日々イーナ
→「雲南節度使大理国王」に封じられる。
→一方、国内向けには「皇帝」を称する。
【モンゴルに降伏】
1253 モンゴルの人に降参大理国
→モンゴル、フビライの庶子フゲチに与えられる。
名称:
→雲南王国
→梁王国
→大理旧主の段氏はフゲチの子孫に仕える。
【梁滅亡】
1390 ペー族の瞳暗れーな梁滅亡
*明に滅ぼされ、南詔以来の独立国家消滅。