*これは『年語呂年註-世界史版』のひとつです。このページでは、インド仏教の歴史の概略をゴロ合わせにそって見ていきたいと思います。
*音声で耳から覚えるためYouTubeに教材を上げています。こちらです。文字だけではリズムをつかみにくいフレーズもスムーズに覚えられます。ぜひ一度聞いてみることをお勧めします。
【インド仏教】
・ゴータマ=シッダールタ生誕
前563 頃見はからい釈迦誕生
*年号は、持っている世界史資料集に従いました。年号についての基本的な考え方については『オリエント王朝年語呂』で書いた通りです。どの説も所詮は推定なので、色々な説がある、と言って結局知識がボヤけてしまうよりは、ハッキリとどれかに従った方が賢明です。
*ゴータマ=シッダールタは80歳で亡くなったとされているので、どの説に従っても没年は80年後です。
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・ゴータマ=シッダールタ死去
前483 シワ満ちて釈迦涅槃
*死後まもなく第1回仏典結集が行われたといわれます。ただし、これは高弟たちによる『口伝』であり、すべての重要な教えを人間が記憶して伝えるというものでした。
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・第2回仏典結集
*ブッダ入滅後約100年後とされています。なので、100年後と覚えておけばOKです。戒律上の意見の相違が起こったことをきっかけに高僧たちを集めて行われたといわれます。その後、仏教には根本分裂と呼ばれる教団の分裂がおこりいくつもの部派に分かれることになります。
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・アショーカ王
【在位】
前268〜前232 アショーカ王、善根積むわ罪尽きるまで
*マウリヤ朝第3代の王、チャンドラグプタ王の孫に当たります。
*インド東岸にあったカリンガ王国の征服の際に多くの人々の命を犠牲にしたことを深く後悔し、以降は仏教に深く帰依して仏教の説く『法(ダルマ)の政治』を志したとされ、その経緯はアショーカ王が民衆教化のために各地に建てた『アショーカ王碑文』に残されています。
・第3回仏典結集
前244 ブッダ説く教えは不死よ第3回
*アショーカ王の治世で行われたとされる仏典結集です。
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・大乗仏教が起こる
ガンダーラ美術(後1世紀〜後3世紀)
→仏像(ヘレニズム文化の影響)
*アレクサンドロス大王の征服からバクトリアの時代までにギリシア彫刻がもたらされ、その後、同地に侵入した大月氏から生まれたクシャーナ朝が、北インドを征服し、仏教を受け入れたことで『ガンダーラ仏』と呼ばれる仏教彫刻が成立しました。
*それまで、仏教では釈迦の姿を造形として描くことはせず、釈迦の生涯を彫りこんだ彫刻でも『蓮の花』や『法輪』を描くことでその代用としていました。あくまで尊ぶべきものは『法(ダルマ)』であり、人間ではないとされていたのです。
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・カニシカ王
後128〜後151 仏教の人には憩いカニシカ王
*カニシカ王の在位年も正確には分かっていないのでこれも推定ですが、とりあえずどうでもいいくらい楽に覚えられるなら覚えておこうということです。
*表に『カニシカ』という文字とともに王の姿、裏に釈迦の姿が刻まれたコインは有名です。
・第4回仏典結集
後150頃 後でもいーこれ大乗仏教
*クシャーナ朝第3代のカニシカ王の時代に行われたとされる仏教経典の結集です。
*後で(できた教え)でも良いよこれ、大丈夫(大乗仏教)ということです。カニシカ王が帰依したのは大乗ではないのではないか?ともされていますが、まあ通説としてはこれでいいでしょう。
・ナーガールジュナ(龍樹)
*カニシカ王のすぐ後の時代を生きた人で、観念実在論的な傾向にあった、当時の仏教部派を排撃し、それまで大乗仏教で直観的に温められてきた『空』の思想を大成しました。
*後に大乗仏教の『祖師』的な位置づけをされていく中で、本来のナーガールジュナの著作でない書物がナーガールジュナによるとされたり、同名の人物と混同されてきた経緯があります。
*ナーガールジュナが『大乗仏教の理論を確立』したという言い方には、ナーガールジュナが書いたことに疑問符が付く書物を根拠としているとされかねないニュアンスがあるので、山川出版の教科書はこれを改めて『空の思想』に限定しています。
・ナーランダ僧院
【成立】
427年頃 グプタの世に成るナーランダ僧院
*世界最古の大学とも言われます。玄奘はここで仏教を学び600部を超える経典を唐に持ち帰りました。
1193 ムスリムが潰していいくさナーランダ
*奴隷王朝を開くアイバクの部下の将軍が、同地に侵攻した際に破壊されました。イスラーム教にとってはナーランダは許しがたい偶像崇拝の異教徒の巣窟だったわけです。
・アジャンタ石窟寺院
*紀元前1世紀〜後2世紀ごろサータヴァーハナ朝の時代に作られた石窟寺院で、僧たちがそこで生活し、修行を行いました。これが前期の遺構で、後期は6世紀ごろの遺跡です。
・エローラ石窟寺院
*仏教の他にヒンドゥー教やジャイナ教の遺構もありますが、もっとも古いものは仏教の遺構です。5世紀から7世紀の遺跡です。
*アジャンタ石窟寺院と同様に、デカン高原の北西部に位置します。
<ゴータマ=シッダールタの教え(仏教)> *人間の認識できるあらゆるものは原因と結果の関係に基づいて常に変化していて(無常)そこには何も本質的なもの(主)は存在しない(無我)。にもかかわらず、人間はそこに常に変わらないものを求めて『執着する(とらわれる)』ので苦しみが生まれる。あらゆるものへの『執着(とらわれ)』を断ち切り、心の炎を吹き消すことで真の平安が得られる、というのが要点といえます。実際には釈迦自身は体系的な教えを説くことはなく、個人の性格に応じて指導を行ったといわれており、理論としてまとめていったのは弟子たちでした。 *ナーガールジュナの時代になると、仏教は学問として高度に発達して『哲学』としての傾向が強くなっていました。釈迦が説いたように人間が認識できるものは原因と結果に基づいて生まれたり消えたりしている、たとえば『赤い花』はそのうちしぼんで枯れてしまい、茶色くなってしまいます。 が、『赤』という色はその花に限らず様々なものに『一時的とはいえ』現れます。ということは、個別のものは変化するとしても、様々なものに『赤』を現すもとになるものは実在しているはずだ、と考えるようになりました。 然し、ナーガールジュナはこれを排撃しました。たとえば今の『赤い花』についていえば『赤』は他の色に対して『赤』なのであって、すべての色は他の色との違いをはなれて存在できない。同様にあらゆるものは、他との関係に基づいて仮に現れているだけで、そこには本質的なものは一切存在しないとしたのです。 ナーガールジュナが攻撃した要点ははっきりしています。『人間の認識できるあらゆるもの』が無常であり無我である以上は、『赤』のもとになるものは実在している、と考えているその人の想像もその中に含まれないはずはありません。それを『実在している』と考えた時点でそれは『執着(とらわれ)』であるといえます。ナーガールジュナの考えが正しいかどうかは別として、相手の考えは少なくとも『すでに仏教ではない』ことになります。 ナーガールジュナの存在の意義は、当時の仏教が横道にそれて空理空論に陥りつつあった状況を見抜き、これを論理的に全滅させることで空虚な議論を終わらせ、仏教を本来のあり方に戻そうとしたことにあったといえます。 |