*これは『エジプト王朝年語呂【年号語呂合わせ】』のA段階・B段階に対応する説明ページです。
A段階
① ギリシアのマケドニアから出たアレクサンドロスの征服によって建設されたアレクサンドリアがプトレマイオス朝の中心都市となります。以降、ローマ帝国領となった後、ビザンツ帝国領の間も一貫して中心都市はアレクサンドリアです。
② イスラーム軍による征服後、現在のカイロ市内の一地区に軍営都市『フスタート』が築かれて以降、建設事業が進められ都市が拡張されてエジプトの首都カイロにつながります。基本的には以上です。
③ ファーティマ朝は当初チュニジアに建った王朝なので首都はマフディーア→カイロへと移っています。
B段階
①アッバース朝以降のトゥールーン朝・イフシード朝共にアッバース朝のカリフの権威を認めていたため、『スンナ派』の王朝です。
②ファーティマ朝はアッバース朝カリフに反対する勢力『シーア派』がアッバース朝打倒をかかげて現在のチュニジアに建国した王朝なので、初めから『シーア派』で、アッバース朝カリフとは別のカリフを立ててこれに対抗しました。
③ファーティマ朝の宰相となったサラディンは、最後のシーア派カリフの死後、アッバース朝カリフを認める宣言をおこない『スンナ派』の王朝アイユーブ朝を起こしました。
④マムルーク朝は奴隷出身のマムルークの有力者が王位につきました。モンゴルのフラグの征服によってアッバース朝カリフが後継ぎもろとも殺され断絶した際に、マムルーク朝はアッバース家の生き残りを受け入れ、カリフに立てることで王朝の正当性を確保しようとしました。→『スンナ派』
⑤マムルーク朝がオスマン朝によって滅ぼされた際にアッバース朝のカリフは完全に断絶しました。後にオスマン朝のスルタンはアッバース朝最後のカリフからその位を『禅譲された』という説が生じ(スルタン=カリフ制)権威付けに利用されました。→『スンナ派』
*よって、単純にいえばファーティマ朝が『シーア派』である以外は基本的に『スンナ派』の王朝であるということになります。