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YouTubeのリンクから来られた方は次の「フレーズ」の説明にお進みください。
これはテンプレ世界史シリーズのひとつです。他をまだご覧でない方はそちらもあわせてどうぞ。
『テンプレ世界史』目次ページはこちらです。
フレーズ
今回のフレーズは、
です。
流れ
各王朝の変遷を書いていきます。
1 チャガタイ・ハン国
1 ↓
1 ティムール朝
1 ↓
1 (以後の中央アジア)
1 ↓
1 ウズベク・ハン国、カシュガル・ハン国
1 ↓
ヒヴァ・ハン国、ブハラ・ハン国、コーカンド・ハン国
1 ↓
1 ロシア帝国の保護国
1 ↓
1 ソビエト連邦
1 ↓
1 ソ連崩壊
1 ↓
1 中央アジア諸国 独立
*最後の「ロシア領からみな独立」はかなり端折っていますが「ロシア領」からそのまま「ソ連」を構成する一部となり、「ソ連崩壊」後、最終的に「中央アジア諸国」が独立した、という流れになります。
ねらい
今回のフレーズの「チャガタイティムール以後中央」の部分ですが、チャガタイ・ハン国、ティムール朝は『イスラームの国の変遷 ② 』のフレーズに入っています。
然し『イスラームの国の変遷 ② 』のフレーズは、ティムール朝以降「アフガニスタン」と「イラン」の2地域に焦点がしぼられていくので、今回の『中央アジアの変遷』のフレーズで中央アジア地域を補足しようという訳です。
なので、今回の『中央アジアの変遷』のフレーズは『イスラームの国の変遷 ② 』に対して、「中央アジアは別だよ、忘れずにね」という意味合いをもっています。
* 発展で各王朝の首都を覚えたい場合はこのページです。
* 各王朝の成立・滅亡年を覚えたい場合はこのページです。
* なお、『テンプレ世界史』のねらいや説明など、詳しくはこちら「テンプレ世界とは?」をお読みください。
今回のフレーズの前段階
とりあえず、中央アジアの歴史には、今回のフレーズに至る前の段階があるわけです。ということで、今回のフレーズに至る前の中央アジアの変遷を整理しておきましょう。
中央アジア史の前半
中央アジア史の前半は、「セレウコス朝シリアからイスラム帝国へ 」の「バクットオオツキクシャグプテフタルトッケツトーサマ」、これが中央アジアにそのままガッツリはまってきます。
バクトリア→大月氏国→クシャーナ朝→グプタ朝→エフタル→突厥→唐領→サーマーン朝
これは最後が「サーマーン朝」で終わります。「サーマーン朝」は、イスラーム王朝ですから、ここで中央アジアのトルコ系遊牧民のイスラーム化が進行します。
中央アジア史の中盤
中央アジア史の中盤は、「イスラームの国の変遷 ①」の「サーマン後にはガズニとゴール」で、
サーマーン朝→ガズナ朝→ゴール朝と移り変わります。
その後が、「イスラームの国の変遷 ②」の「ホラズム続かずイルチャガタイ、ティムール」までで、
→ホラズム朝→チャガタイ・ハン国→ティムール朝と続きます。
ただし、サーマーン朝からホラズム朝時代の中央アジアには、サーマーン朝を滅ぼした初のトルコ系イスラーム王朝である「カラハン朝」が存在していました。「カラハン朝」については『北アジアの国の変遷』のフレーズに入れているほか、あちこちでふれていますが、中央アジアの王朝というならば「カラハン朝」は典型的な中央アジアの王朝であるので、これは特に書いておきます。
さて、これで今回のフレーズ「チャガタイティムール以後中央」にまでつながりました。
再び今回のフレーズ
ともかく、「セレウコス朝シリアからイスラム帝国へ 」「イスラームの国の変遷 ①②」を既に覚えてしまった人は、中央アジア史の前半、中盤はもうクリアしてしまっていることになります。
見てわかるとおり、中央アジアは東から、西から、南から征服・支配を受けることの多い歴史を歩んでいます。
その中でも決定的な影響は、「サーマーン朝」以後のイスラーム教の影響、もうひとつは「モンゴル帝国」による征服でしょうか。
で、その後の中央アジアの国は、「ウズベクカシュガルヒヴァブハラ、コーカンドはみなハンが付く」とあるようにトルコ系遊牧民中心の「イスラーム王朝」でありながら、
ウズベク・ハン国(シャイバーニー朝)、カシュガル・ハン国、ヒヴァ・ハン国、ブハラ・ハン国、コーカンド・ハン国
のように「ハン」を称する君主を戴く国を建てています。
その中には、実際にチンギスハンの血統をいただく国もあれば、そうでない国もありますが、どの国も一様に「わしらはあの偉大なモンゴル帝国の後を継ぐ国じゃ」という意識を持っていたということです。
時代の流れで言うと、大体、
ウズベク・ハン国、カシュガル・ハン国
→ヒヴァ・ハン国、ブハラ・ハン国、コーカンド・ハン国という変遷になります。
個々の国の簡単な説明
今回の国はあまり教科書などでなじみがないと思われるので、ちょろっと個々の国の説明を付けておきます。
ウズベク・ハン国
ウズベク・ハン国は、遊牧集団であるウズベクによって建てられたトルコ系イスラム王朝ですが、王朝名をシャイバーニー朝と言って、首都をサマルカンドからブハラに移してからは「ブハラ・ハン国」という扱いになります。
「ブハラ・ハン国」というのは「ブハラに首都を置いた王朝の総称」ということになっていて、シャイバーニー朝に続いて現れたジャーン朝、マンギト朝までの3つの王朝をまとめて「ブハラ・ハン国」と呼んでいます。
カシュガル・ハン国
カシュガル・ハン国は、ヤルカンド・ハン国とも言って、「カシュガル」「ヤルカンド」ともに現在の中国の新疆ウイグル自治区の西端近くにある都市です。一度でいいので、地図で確認するとしっくりくるのでお勧めです。タリム盆地の左の端っこあたりです。
カシュガル・ハン国は、分裂後のモンゴル帝国の一国である「チャガタイ・ハン国」が東西に分裂してできた東チャガタイ・ハン国のなれの果て(後継王朝)です。
16代、200年近く続きますが最後はジュンガルに滅ぼされます。カシュガル・ハン国もジュンガルも「北アジアの変遷②」に入っています。
ウズベク3ハン国
ヒヴァ・ハン国、ブハラ・ハン国、コーカンド・ハン国は、遊牧民ウズベクの建てた「ウズベク3ハン国」とされていて、すべて、分裂後のモンゴル帝国の一国である「キプチャク・ハン国」の後継王朝です。
ただ、ヒヴァ・ハン国、ブハラ・ハン国は、チンギス・ハンの血統を頭にいただいていますが、コーカンド・ハン国の君主は、チンギス・ハンの血統ではありません。
そしてこれらの国は、19世紀後半には、北西から進出してきたロシアの勢力範囲に飲み込まれていき姿を消します。
もちろん、ロシア革命後は、ソヴィエト連邦下にも組み入れられていましたが、ソ連崩壊以後、今日見ることができる中央アジア諸国として独立しています。
現在のブハラ、ヒヴァ、コーカンド、サマルカンドはすべてウズベキスタンの都市です。現在の中央アジアの国名が怪しい場合はこれ「日本の周辺アジアの国の鼻歌」で覚えましょう。