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これは『テンプレ世界史』シリーズのひとつです。他をまだご覧でない方はそちらもあわせてどうぞ。
『テンプレ世界史』目次ページはこちらです。
フレーズ
今回のフレーズは、
「オイラトタタールカシュガルハン国、カルカジュンガル回部を生むも、まとめて清に服属す」
① 「オイラト」はそのまま「オイラト」です。遊牧民の部族連合です。
②「タタール」は「タタール(韃靼)」です。いわゆる「北元」が1388年に滅びたと考えた場合の、それ以降の「モンゴル(諸部族)」のことです。
③ 「カシュガルハン国」もそのまま「カシュガル・ハン国」です。タリム盆地にありました。
④「カルカ」は「カルカ(ハルハ)」で、「ハルハ(部)」という表記が多いのでここでも主に「ハルハ」とします。フレーズとしては言いやすいので「カルカ」のままにしています。
⑤「ジュンガル」は「ジュンガル(帝国)」です。「オイラト」部族連合の「ジュンガル部」から「オイラト」の盟主となり、ガルダンの時代には一時、大帝国を築きました。
⑥「回部」とは、天山山脈の北部やタリム盆地にいた「ウイグル」のことです。清朝の支配下に入り、イスラーム教徒の土地として「回疆」とされたものです、その前は「ジュンガル」に支配されていました。それ以前の「カシュガル・ハン国」の領域を全て含みます。
⑦「まとめて清に服属す」と乱暴にまとめてしまいましたが、以上の諸勢力はすべて最終的に女真族からでた「清朝」の支配下に入り「藩部」とされることになります。
実は「カルカ部」「ジュンガル部」「回部」といった並びは、もともと「清朝」の「藩部」として組み込まれていく経緯からフレーズに採りいれたものです。
ねらい
今回の個別フレーズの「ねらい」については、初回の「オリエントの国の移り変わり 」の「ねらい」に準じるものとします。ご覧でない場合はそちらを確認してください。
*発展として各王朝の成立・滅亡年を覚えたい場合はこのページです。
*なお、『テンプレ世界史』のねらいや説明など、詳しくはこちら「テンプレ世界とは?」をお読みください。
解説
では、内容を解説していきますが、これらの文章はイメージ付けと、流れをつかんでもらうために書いておきます。なのでざっと読んでもらっておけばいいです。
今回のフレーズは、前回の「北アジアの国の変遷【前半】」で扱った内容の後半に当たります。前半は、「最後はまるっと元統一」ということで、史上最大の領土を獲得した征服王朝「モンゴル帝国(元)」が出て北アジアが統一されたところまでです。
北元
その後「元」は「明」に敗れて首都の「大都(北京)」を手放し、モンゴル高原に退きます。これを後世「北元」と呼んでいる訳です。
「北元」には、北京を捨てる前と同じ「フビライ」の子孫であるハーンが立っていました。ところが、かつて「フビライ」とハーンの位を争ったアリクブケというフビライの弟がいたのですが、そのアリクブケの子孫である「イェスデル」という男が、当時のハーンを殺し、ハーンの位を奪い取るという事件が起こります。
こういう背景から、中国の明の側からは「北元(元)」は滅亡したとみなす、ということで、以降「タタール(韃靼)」と呼ばれます。で、日本でもそう呼んできた訳ですが、最近は単純に「モンゴル(諸部族)」と呼ぶことが多いようです。ここの説明でも「モンゴル(諸部族)」と書いていたら「タタール(韃靼)」のことだと思ってください。
とはいえ、です。実は、アリクブケ家「イェスデル」の子孫を介して「北元」の「ハーン」はその後も続いていた訳です。そうした意味では、今回のフレーズにある「オイラト」「タタール(韃靼)」「カルカ(ハルハ)」「ジュンガル(帝国)」の歴史は、大っきく見るならば「北元」の歴史の一部であったという見方もできない訳ではありません。
オイラト
オイラトは、もともとチンギスハンの時代以前からバイカル湖の西、イェニセイ川の東側一帯にいた遊牧民の部族集団で、もとはトルコ系であったとも言われています。
モンゴルの征服の際には、いち早くチンギスハンに服従して親戚関係を結ぶことで、モンゴル帝国内部の有力な部族集団となりました。
オイラトは「北元」では、ハーンの位を奪い取った「イェスデル」のアリクブケ家の有力な後ろ盾でした。このことから、何代にもわたってアリクブケ家のハーンを支えるなかで、だんだんと力をまし、ついにはオイラト部族長が「傀儡(かいらい=あやつり人形)」のハーンを立てて自ら権力を握り、モンゴル諸部族をしたがえるほどに成長します。
それが一つの頂点に達したのがオイラト部族長「エセン」の時代であり、モンゴル諸部族の統一を背景に明に侵攻を開始し、明の正統帝の親征軍を破り、正統帝を「土木堡」というところで捕えてしまいます。これが教科書にも載っている「土木の変(1449年)」です。
その後「エセン」と「傀儡」のハーンとの関係が悪化したことで「エセン」は「傀儡」のハーンを滅ぼし、自らハーンに即位します。
然し、チンギスハンの男系の子孫でない「エセン」がハーンを宣言したことは、モンゴル諸部族ばかりでなくオイラト諸部族の反発をも招いてしまい、結局、即位からわずか一年で「エセン」は部下に殺されてしまいます。
以降、オイラトの影響力は大幅に弱まり、オイラトはモンゴルの西部にまで後退してしまいました。
ダヤン・ハーン
「エセン」は「傀儡」のハーンを滅ぼした際、他のモンゴルの王族も根絶やしにしてしまおうとしました。そのとき「エセン」の娘の子であったバヤン・モンケは死を免れました。
そして「エセン」の死後、当時のハーンが死に、後継ぎが絶えてハーンが「空位」となります。その際、白羽の矢が立ったのが、すでに民間で暮らしていたバヤン・モンケの息子でした。
当時、チンギスハンの血をひくほぼ唯一の存在であった彼は、ダヤン・ハーンとして即位します。「ダヤン」とは国名の「大元」がモンゴル語に採り入れられたものとも言われます。こういうの、覚えやすいですね。
即位後、すべてのモンゴル諸部族をしたがえたダヤン・ハーンは、翌年の1488年には早くも明に攻勢をかけています。「イェスデル」の事件からちょうど100年後です。続いてモンゴル西部のオイラトを破ってこれを屈服させます。
ダヤン・ハーンはモンゴル諸部族を六つの大部族、六トゥメン(万戸)に再編成しました。その左翼(東)が、チャハル、ハルハ、ウリヤンハン、右翼(西)がトメト、オルドス、ヨンシエブと言います。このうちチャハルはダヤン・ハーンが直接支配したので、その王家をチャハル王家と言います。
11人の息子に恵まれたダヤン・ハーンは、自らの息子をこれらの諸部に婿入りさせ部族長にしました。こうしてダヤン・ハーンのもとでモンゴルは再統一されました。
モンゴル諸部族それぞれの上にダヤン・ハーンの子孫が立つことで、その子孫は繁栄し、後々までモンゴルの貴族として残ることになりました。
然し、多くの息子がそれぞれの諸部の上に立つということは、ハーンを名乗る「資格」がある人間がたくさんいて、それぞれ権力を持っているということでもあり、モンゴル統一という点では災いの種でもありました。ダヤン・ハーンの死後、複数の有力なハーンが立つことで、モンゴルとしての統一は常に不安定なものになります。
ダヤン・ハーンの死後、混乱しかけたモンゴルを再び統一し、明に侵入して1550年には北京を包囲するまでに強勢を誇った「アルタン(黄金)・ハーン」は、ダヤン・ハーンの孫に当たりますが、彼はトメト部の当主であり、チャハル部の北元のハーン(皇帝)ではありませんでした。
然し、当時の北元のハーン(皇帝)は、彼の勢力の大きさを前にして、彼が「ハーン」の称号を名乗ることを認めざるを得ませんでした。
アルタン・ハーンは、武勇だけでなく政治的にもすぐれた人物だったとされており、内モンゴル自治区の中心都市であるフフホトは、彼が建設したものです。また、仏教信仰も厚く、ダライ・ラマ3世に初めて「ダライ・ラマ」という名前を贈ったのも彼でした。
然し、アルタン・ハーンの死後、強いカリスマ性を持った人物を失ったモンゴルは、再び分裂していくことになります。
ハルハ
前に出たように「カルカ(ハルハ)」は、近世になって生まれたモンゴルの一部族です。現在の「モンゴル国」の多数派民族ということになっています。ってことは、他のモンゴル部族は「モンゴル国」の「少数派」ということになります。「モンゴル国」というからには、モンゴル諸部族の子孫が平均的に含まれているのかと思いきや、そうではないということです。
ハルハには、モンゴル諸部族の再統一を果たしたダヤン・ハーンの息子が婿に入って部族長となっていました。ダヤン・ハーン死後、ハルハはモンゴル高原中央部に勢力を広げます。そして、ダヤン・ハーンのひ孫にあたるハルハ部長、アバダイは、オイラトを破って名を高めます。
アバダイはかつてのモンゴル帝国の首都であったカラコルムに仏教寺院を建設し、その翌年の1586年、布教のため各地を巡っていたダライラマ3世に会い、このとき、宗教上の王の称号を授けられます。それ以降アバダイはハーンを名乗ることになり、ここに初めてハルハ部出身のハーンが生まれることになりました。もちろんこれも、チャハル部の北元のハーン(皇帝)とは別物です。
これは、ダヤン・ハーンの即位から100年後の出来事になります。
その後アバダイの後継者はオイラト討伐事業とともに、ハーンの位も引き継ぐようになります。
然し一方、17世紀初め、北元のハーン(チャハル部)が、強権のもとモンゴル部族を統一しようとしたのを嫌った諸部族の中に、満州の後金(後の清朝)と同盟を組むものが現れます。後金軍に攻められた北元のハーンは西のフフホトに移動します。その後、ハルハの有力者であったアバダイの甥の後ろ盾を得て勢力を盛り返したハーンは、チベット遠征に向かいますが、途中で病死してしまいます。
ハーン不在のフフホトは後金軍に占領され、まもなく北元のハーンの後継ぎ息子も降伏し、元の皇帝に代々伝わるという「玉璽(ぎょくじ)」を、後金に対して献上することになります。
このことがきっかけで後金のホンタイジは、チンギスハンの子孫を完全に従え、満州(女真)だけでなくモンゴルに対してもハーンとして君臨する皇帝となり「モンゴル帝国」の後継王朝として国号を「大清」と改めることになる訳です。1636年、ダヤン・ハーンの即位から150年後のことです。
ハルハの東部の有力者は、すでにその前年から「清」に友好使節を派遣し始め、「清」と朝貢関係を結ぶことで、独立を保とうとし始めます。
他方で、ほとんどのモンゴル諸部族が「清」の支配下に入ったことへの危機感から、同じ危機感を抱く長年の敵であったオイラトと同盟を組むことになります。「オイラト・モンゴル法典(1640)」が成立し、チベットのダライ・ラマを共通の権威とすることで両者の対立は終わりました。
グーシ・ハーン
17世紀初頭のオイラトは、モンゴル高原の西部からアルタイ山脈の南部、ジュンガル盆地辺りまでを活動範囲としていました。
当時、オイラトの中で有力であったホシュート部族の長、トゥルバイフは、自分たちの帰依していたダライ・ラマ5世の宗派がチベットで窮地に陥っているとして、これを救うために1636年、オイラト軍を率いてチベット遠征に出発します。翌年初めにはチベット東北部を完全に押さえ、ラサのダライ・ラマ5世のもとに上って「ハーン」の称号と印章を与えられます。
これよりトゥルバイフは「グーシ・ハーン」と名乗ることになります。
1636年といえば、先の「大清」国成立と同じころの出来事です。
本来、チンギス・ハン男系の子孫でないオイラト部族は「ハーン」を名乗ることはできないはずですが、以降、チベット仏教のダライ・ラマの宗教的権威のもと「ハーン」が任命される慣例が生まれることになりました。
グーシ・ハーンはその後の5年間の内にチベット各地を征服し、1642年にはチベットの大部分を制圧し、チベットにグシ・ハン朝が成立します。これにより初めて、ダライ・ラマとその宗派は、チベット仏教において、他の宗派を超えた最高権威となりました。
そして、グーシ・ハーンは、自らが統一したチベットに君臨する一方で、チベット征服にともなっていた、当時のジュンガル部の長を自分の娘婿としてオイラト本国に帰らせ、その地の支配を委ねます。
ジュンガル
オイラト支配を任されたジュンガル部の長が1653年に死ぬと、その息子「センゲ」が後を継ぎます。ところがこれを妬んだ「センゲ」の腹違いの兄弟たちは「センゲ」と争い、殺してしまいます。(1670年)
「センゲ」には13歳からチベットに留学しダライ・ラマ5世に師事して10年間学んだガルダンという弟がいました。帰国して還俗したガルダンは兄の死の翌年である1671年、兄の仇を討ち、ジュンガル部長となります。続いて他の有力なライバルを屈服させ、全オイラトの盟主となりました。
ダライ・ラマ5世は、ガルダンに対して全オイラトの「ハーン」の称号を与えます。
ガルダンは当時タリム盆地にあったイスラーム王朝「カシュガル・ハン国」を攻め、1678年にハミ、トゥルファンを占領、続いて1680年にはその中心都市カシュガル、ヤルカンドを陥落させ「カシュガル・ハン国」を滅ぼしました。
更に中央アジアへ遠征を行ったガルダンは、以降5年間の内にカザフ、キルギスに領土を広げます。
1687年、以前より右翼と左翼の宗主の間で争いが続いていたモンゴルのハルハで内紛がおこります。そして、右翼の宗主がガルダンを頼ってジュンガルに向かう途中、左翼の追手に追いつかれ殺されてしまいます。それだけでなく、この時、ジュンガルから迎えに出たガルダンの弟まで殺されてしまいました。
翌年の1688年、ガルダンは大軍を率いてハルハに侵攻を開始します。ハルハの主要部は征服され略奪を受けました。結果、数十万ともいわれるハルハの人々が清領に逃げ込み、清朝の保護を求めることになります。モンゴル最後の独立勢力であったハルハも、こうして自立性を失うことになりました。ダヤン・ハーンが立ってからちょうど200年後のことです。
清を敵に回したくなかったガルダンは清の康熙帝に手紙を送り、ハルハ侵攻に理解を求めますが、清朝が、弟の仇の身柄引き渡しの要求に応じようとしなかったため、ガルダンは軍を率いて進み北京の北方で清軍と交戦状態に入ります。
ジュンガル軍はロシア製の大砲を装備していましたが、決着はつかず、ダライ・ラマ5世の摂政が派遣した僧侶が清側と交渉している間にガルダンは軍を率いて撤退します。
ところがそのころ、本国では兄「センゲ」の息子が反旗を翻し、康熙帝と連絡を取り合いガルダンの退路をふさぎます。清に臣従を誓ったハルハの領地を取り戻すという理由のもと派遣された清軍の追撃によってガルダンは敗走、アルタイ山脈の北方をさまよった末、ガルダンは、1697年病死しました。
ジュンガルでハーンを称したのはガルダン・ハーン一人であり、それ以外の部族長は「ホンタイジ」を名乗っています。なので「ジュンガル帝国」は「ジュンガルハン国」とは呼びません。
その後、ジュンガルは「センゲ」の息子が「ホンタイジ」として、清朝との間に朝貢関係を結びますが、良好な関係は長くは続かず、各地の領有権を巡って清とジュンガルは再び交戦状態に入ります。この争いは「センゲ」の息子が死に、その後継ぎの代になっても続きます。
ちなみにグーシ・ハーンがチベットに建てたグシ・ハン朝は、「センゲ」の息子の後継ぎの時代、1717年にジュンガルの奇襲を受けて本家筋が断絶し、続いて1723年から1724年、今度は清朝の雍正帝の攻撃を受けて完全に屈服し、チベットにおける権限をはく奪され滅亡しています。
藩部
広大な版図を得た清朝は、それらを直轄地と藩部に分けて統治しました。藩部の要地には将軍を置き、土着の支配者をとりたてて間接統治を行い、「理藩院」を設置して、それら諸藩部の行政事務を管理させました。
当初「理藩院」はモンゴルのチャハル部(内蒙古)に対して置かれ、これが1638年のこと、もちろん先の「大清国」成立の時期になります。(ただし、チャハル王家はその後三藩の乱に呼応して反乱をおこしたため取り潰しにあい、内蒙古は直轄領にされました)
次にカルカ部(ハルハ)(外蒙古)ですが、ガルダンが死んだ1697年に清朝により領地を回復されて藩部とされます。
更にチベットのオイラト、グシ・ハン朝が滅びた1724年、チベット東北部(青海)一帯が「瓦剌(ワラ)部」として、続いて1750年、西蔵(チベット)が藩部に組み込まれます。
最後にジュンガルですが、1745年「センゲ」の息子の後継ぎが死ぬと、ジュンガルとオイラト部族連合は分裂状態となり、諸部の中には清朝に投降するものが相次ぎます。
1754年から1755年にかけて、清の乾隆帝はジュンガルに対して大軍をおくりこみ、タリム盆地に逃げ込んだ当時の「ホンタイジ」を捕え、ジュンガル帝国は滅亡しました。
乾隆帝は当初オイラトを4部に分け、それぞれにハーンを置いて統治しようとしましたが、その後も、ジュンガルの残党がしばしば反乱をおこし、これを掃討する清軍によって天然痘が持ち込まれたため、オイラトの人口は激減し、特にジュンガルの人々はほぼ全滅したと言われます。今日、ジュンガル故地のイリ川周辺部に住んでいるのは、清朝が入植させたカザフ人や満州人の子孫であり、ジュンガルの人々の子孫ではないという訳です。
1759年、ジュンガルを平定した清はジュンガルが支配していた天山山脈北部を収めとり、1762年には同地にイリ将軍府をおき、ウイグル人の住む土地と合わせて「回部」として藩部の一部に組み込みました。
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