中国官吏任用制度と土地制度 覚え方

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この『テンプレ世界史』の中国編は、あらかじめ中国王朝名をすべて覚えていることを前提にして作られています。確認しておいてください。

YouTubeのリンクから来られた方は次のフレーズの説明にお進みください。

これは『テンプレ世界史』シリーズのひとつです。他をまだご覧でない方はそちらもあわせてどうぞ。

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フレーズ

今回のフレーズは、色々と説明が必要な感じですね。

中国官吏任用制度

漢郷魏九に隋から選挙で宋以降科挙

とりあえず、フレーズは覚えやすいと思います。音声ファイルをよく聞いてくれればそれだけでも覚えられると思います。

①「漢郷」の「」は国名で「」は「挙里選(きょうきょりせん)」、「魏九」の「」は国名で「」は「品中正法(きゅうひんちゅうせいほう)」のことです。

②「挙里選(きょうきょりせん)」と「品中正法(きゅうひんちゅうせいほう)」という名前は覚えなければいけません。
とはいえ、名前は知っていても「ありゃ、いつのことだっけ?」となりがちです。
でも、このフレーズがあればもう大丈夫、めったなことでは忘れません、という訳です。
また、私たちは一度覚えた知識が出てこない場合、言葉の「」を聞くと思いだせることが多いです。このフレーズはそうした「頭出しの法則」にのっとって作られています。

③「隋から選挙で」と言いますがくれぐれも注意してほしいのは、これは「科挙」と他の任用法とを併用していたということで「選挙」という特別な方法があった訳ではないということです。むしろ、「科挙」は隋から始まりました。
単に「選挙」というのであれば、その前の「挙里選」や「品中正法」も「選挙」になります。
「じゃあ、隋から選挙じゃないじゃないか!」
確かにその通りです。ここの「隋から」は「隋から宋の手前までは『選挙と覚える」という意味で、隋から選挙』が始まった訳ではありません。「科挙」と他の任用法を併用していた、というのを簡単に表す言葉がないのでとりあえず「選挙」と言っています。実は、初めに参考にした資料がそうなっていたのです。

④「宋以降科挙」となっているのは「」の時代になって、「科挙」が唯一の官吏任用法になったからです。この点はこのフレーズは強調されていて覚えやすいと思います。

中国土地制度

井田、阡陌、漢限田、魏晋屯田、占田課田、北魏均田、宋佃戸

カタカナ表記を交えると次のような感じです。作者も実際このようにして覚えました。

セイデン、センパク、漢ゲンデン、魏晋トンデン、センデンカデン、北魏キンデン、宋デンコ

これらは、それぞれの時代の中国の土地制度を表しています。

解説

では、上のフレーズを解説していきます。

中国官吏任用制度

要は「国の役人の採用の仕方」のことです。

漢郷魏九」については、フレーズの説明で大かたはふれました。「」の「挙里選」「」の「品中正法」です。

挙里選」は読んで字のごとくというのに近く、地方の長官が「こいつは中々仕事ができそうな人物や」と思った若者を役人に推薦するという方法です。

品中正法」というのはそこから一歩進んで、地方におかれた「中正官」という役人がめぼしい人材を「九品(9等級)」に分けて役人に推薦するという方法です。

ちゃんとやればいい方法なんでしょうが、残念ながらコネのにおいがぷんぷんしますね。実際そういうことで「これはダメや」ということになった訳です。

そういうことで、「儒学の試験目による選」つまり「科挙」が成立します。これが「」の時代で、「隋から選挙で」に当たります。もちろん次の「」にも継承されていきます。

しかし、これがほぼ唯一の「官吏登用法」として整えられたのは「」の時代で、この時代、皇帝がじきじきに「試験官」役をかって出て宮中で最終試験をする「殿試(でんし)」も追加されました。

これが「宋以降科挙」と特別に分けて覚える理由です。

科挙は「」に始まって「」の時代まで、ざっくり1300年間、中国の「官吏登用法」であったと思っておいていいです。

ただ、モンゴル南宋を滅ぼしてしばらくの間、中断されて科挙が行われなかった時期があったことなどは想像がつくでしょう。

最終的に、近代化の必要などから、科挙が廃止されたのは清朝末期光緒帝の時代(1905年)です。

中国土地制度

まず、ここで覚えようとしている土地制度を正しく並べてみます。

井田法・阡陌制・限田法・屯田制・占田課田法・均田制・佃戸制』

の計7つです。

時代の導き方としては、「漢限田」が初めの基準で「限田」が行われたのは「」の時代です。

」の時代に「限田」ということは、その前の統一王朝は「」と「」に当たりますから「井田」は「」の時代の制度。「阡陌」は「」の時代の制度ということになります。

魏晋屯田占田課田」は「」と「」にそれぞれ「屯田」「占田・課田」を振り分けろという意味です。

つまり、「屯田」は「」の時代の制度、「占田・課田」は「」の時代の制度です。

北魏均田」と宋佃戸」の二つは、それぞれの土地制度が一般化した時代を表しています。

なので、「北魏」以降の「」「」までは「均田」です。

そして、」から「」「」「」の時代まで続いたのが「佃戸」です。

但し、新興地主層が、小作人の「佃戸」に土地を貸して小作料をとるという方式は、唐の末期から五代十国の時代、すでに発生していました。

」の時代に、これが広がって、社会一般の土地経営のやり方として見られるようになったのでこれを「佃戸」と呼んでいる訳です。

ということで、「佃戸」はあくまで自然に広がっていった私的な土地経営のあり方で、国が定めた制度である「均田」までの「土地制度」とは区別しておく必要があります。

 ・井田法
まず、1里四方(約400m×400m)の田を井の字に9等分し、周りの8つの部分を8つの家族が耕す田としてそれぞれに配り、真ん中の1つを公田として共同で耕し収穫を納めると定めたものです。孟子などの儒学者が周の時代の土地制度として理想としました。

・阡陌制
秦の孝公に仕えた商鞅が行った政策の一つで、国家の生産力を向上させるため、一家族の父子兄弟を分家させて戸数を増やし新しい土地を開墾させるという「分異法」があります。これに関連し、そのようにして生じた新開地の区画整理に関する制度が、阡陌制であったと考えられています。然し、その内容については未だよく分かっていません。

・限田法
諸侯の私有地を封土内に限り、所有地の広さや奴婢の所有数にも制限を加えるなど、土地所有の行き過ぎに歯止めをかけようとした法令です。前漢の哀帝の時代、大司馬師丹の建言に基づいて発布されました。

・屯田制
荒廃した田畑を、土地を失った農民たちにあてがって耕作させようとするものです。初めは魏の五都の一つである許都(許昌)の周辺で行われ、のち各地に広まりました。国が土地と人民を直接に管理しようとする姿勢は後の均田制につながるものがあります。魏の曹操が、韓浩・棗祗らの提言に従って採用しました。

・占田・課田制
屯田の廃止後、西晋の司馬炎が開始した制度で、『占田』が土地所有の制限『課田』が成年男子に一定面積の土地を与えて耕作納税を義務付けたものとされています。実態はよく分かっておらず、司馬炎死後の八王の乱以降はほとんど行われなくなったと考えられていますが、成長する貴族・豪族の力を抑え、王朝による直接支配体制を確立しようとする点で均田制の先駆として評価されています。

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