セレウコス朝シリアからイスラーム帝国へ

YouTube 音声

音声ファイルはこちらです。

YouTubeのリンクから来られた方は次の「フレーズ」の説明にお進みください。
これはテンプレ世界史シリーズのひとつです。他をまだご覧でない方はそちらもあわせてどうぞ。
『テンプレ世界史』目次ページこちらです。

フレーズ

総説

これらは意味が分かればそれで良いです。要約したフレーズを覚えることにしています。ただ理解の助けにはなるでしょう。

セレウコス朝シリアの崩壊後、現在のイラン・イラク地域と、アフガニスタン(パキスタン一部)と中央アジアの一部を含む地域、二つの地域を並行して進める形をとっています。イラン・イラク地域を青色アフガニスタン・中央アジア地域をネズミ色で色分けします。

セレウコス朝シリアの後は
パルティア横目にバクトリア
大月氏からクシャーナ成長
パルティア滅びてササン朝
となりでグプタエフタル突厥
一時は唐領サーマン朝
その頃ササンイスラム帝国

まあ、覚えるのは面倒です。(もっとも私は作成過程で嫌というほど聞くので覚えていますが)ということで要約したのですが、要約では時代の対応は抜け落ちていますので解説で説明します。

実際にはこれだけ覚えます。音声はこちらの『文字入り』に入っています。

これも総説と同じように色分けすると次のようになります。

セレコパルティアサッサイスラムバクットオオツキクシャグプテフタルトッケツトーサマ

セレコ」は「セレウコス朝シリア」のことです。これが崩壊した後は、イラン・イラク中心の流れと、アフガニスタン・中央アジア中心の流れで、前半後半に分けます。

パルティア」は「パルティア」「サッサ」が「ササン朝」「イスラム」が「イスラーム(ウマイヤ朝とアッバース朝)」でここまでが主にイラン・イラク中心の流れ。

バクット」が「バクトリア」「オオツキ」が「大月氏」「クシャ」が「クシャーナ朝」。次の「グプテフタル」は「グプタ」の「グプタ」と「エフタル」をつなげたもの。「トッケツ」は「突厥」。最後の「トー」は「唐領」「サマ」は「サーマーン朝」のことですここまでが主にアフガニスタン・中央アジア中心の流れです。

ねら

今回の個別フレーズの「ねらい」については、初回のオリエントの国の移り変わり 「ねらい」に準じるものとします。ご覧でない場合はそちらを確認してください。

① 発展で各王朝の首都を覚えたい場合はこのページです。
各王朝の成立・滅亡年を覚えたい場合はこのページを参考にして下さい。
なお、テンプレ世界史のねらいや説明など、詳しくはこちら「テンプレ世界とは?」をお読みください。

大体「流れ」はこんな感じになります。

1      セレウコス朝シリア
1        
イラン・イラク)    (アフガン・中央アジア
1    ↓          ↓
1  パルティア      バクトリア
1    ↓          ↓
1             大月氏
1    ↓          ↓
1            クシャーナ朝
    ササン朝        
1    ↓         グプタ朝
1    ↓          ↓
1    ↓         エフタル
1    ↓          ↓
1    ↓           突厥
イスラーム(ウマイヤ朝)      ↓
1    ↓           唐領
イスラーム(アッバース朝)         
1    ↓        サーマーン朝

簡単な解説

総説の説明をしていくことで、2地域の時代の対応を見ていきます。とはいえこれも流れの書き方を改良したのと地図イメージを作ったことで役割は薄くなっています。確認のつもりで読んでください。

総説

①「セレウコス朝シリアの後はパルティア横目にバクトリア

 

セレウコス朝シリアの衰退後、西のパルティアと東のバクトリアが並び立つ状態(B.C.3世紀半ば)となりました。

(ただしセレウコス朝はB.C.1世紀半ばまで細々と続いています)

②「大月氏からクシャーナ成長パルティア滅びてササン朝

  

前段の「バクトリア」の続きで、バクトリア滅亡(BC130年ごろ)後この地域に定着した「大月氏」からクシャン族が成長しAD1世紀に「クシャーナ」を建てます。

一方で「パルティア」が3世紀に入って「ササン朝」に滅ぼされ、クシャーナ朝も領土の大部分が「ササン朝」に奪われクシャーナ朝は衰退します。

③「となりでグプタエフタル突厥

 

4世紀前半に成立した「グプタ」はクシャーナ朝の旧領を引き継ぎ北インドを統一しますが、5世紀半ばアフガニスタン東北部から成長してきた「エフタル」に悩まされ滅亡。(6世紀初め)

   

同じく「ササン朝」も「エフタル」に悩まされますが、北アジアから中央アジアに勢力を広げてきた「突厥」と手を組み、挟み撃ちにすることでエフタルを滅ぼします。(6世紀後半)

エフタル滅亡後の領域は結局「突厥」のものとなります。(ただし大帝国となった「突厥」は6世紀末には東西に分裂します。→「西突厥」)

④「一時は唐領サーマン朝

西突厥」は7世紀初めに最盛期を迎えた後、内輪もめで衰え、東から勢力を広げてきた「」の支配下(羈縻政策)に入ります。中央アジアの「」の支配は8世紀まで続き、751年タラス河畔の戦いで「イスラーム帝国(アッバース朝)」に大敗後、後退します。

  

その後イランにはターヒル朝サッファール朝が興亡を繰り返します。(「イスラームの国の変遷①」)

が、最終的に中央アジアに起こったイスラーム王朝である「サーマーン朝」がアフガニスタンとイランの一部を含む範囲をあわせ支配することになります。

⑤「その頃ササンイスラム帝国

「その頃」というのは「一時は唐領」のことで「」の中央アジア進出とイスラーム勢力の進出の時期はほぼ同じ頃です。イスラーム勢力の進出によって「ササン朝」は滅亡し、ウマイヤ朝、続くアッバース朝が西アジア全域と北アフリカを含む「イスラーム帝国」を形作ります。そして、すでに④で書いたとおりから来た「唐帝国」と西から来た「イスラーム帝国」が中央アジアで出会うべくして出会い、唐が敗北した結果、中央アジアは「イスラーム世界」デビューすることになる訳です。

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