じゅず学(数珠つなぎ暗誦法)とは

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ここで紹介している音声教材の多くには「数珠つなぎ暗誦シリーズ」と書かれています。

だいたい感覚的に分かると思いますが、数珠つなぎ暗誦法とは、一連のことばを数珠つなぎにして丸覚えしてしまうという暗誦法です。

もっとも身近なところでは、日本人のほとんどが、小学2年までにむりくり覚えさせられる九九がそれの代表です。

また、ポケモンの名前をスラスラとつなげて言えるというのも立派な数珠つなぎ暗誦です。

あるいは、小中学校によっては、じゅげむじゅげむを暗誦させるところもあるようですね。これも典型的な数珠つなぎ暗誦の例です。

ただし、この「場当たり金魚」で扱う内容は、小中高校の五科目で習う知識の内容がほとんどになります。

小中高校で扱う、数ある分野の中から、この暗誦法に適した分野を見つけ出しては食い散らかしていくことで、本来、学生が勉強する際に味わうことができるはずだった負担をまんまと軽くし、ぶつかることのできるはずだった壁を穴だらけにして崩壊させてやろうという悪の企み、

そうしたアグレッシブで野心的な試みを「じゅず学」といいます。

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「じゅず学」、その可能性

そんな大げさなことを言っても、つなげて覚えるくらい昔からあるありふれた覚え方じゃないか、という感想も当然あってしかるべきでしょう。

確かに、それはその通りです。

しかし、これまでこの数珠つなぎ暗誦法の「可能性」というものがまともに扱われてこなかった、考えられてこなかったこともまた事実なのです。

この暗誦法にはいくつかの魔術的な効果があります。ここではその特長を次の7点に分けて説明したいと思います。

1.つなげて言うことが目標となると人は「繰り返す」ことをいとわない。
2.つなげて言えるようになると「繰り返す」ことをいとわないどころか、調子に乗って何度も言う。
3.言えるようになるとどこでも復習できてしまう。
4.しかも、かなりの分量の知識が数秒で復習されてしまう。
5.はじめは暗誦に苦手意識がある人でもだんだん能力が開花する。
6.「じゅず学」は年齢不問。
7.長い年月放っておいても忘れない。

では、具体的に説明していきたいと思います。まず第一点目。

1.つなげて言うことが目標となると人は「繰り返す」ことをいとわない。

人は覚えるべき語句を数回口にすると、大概飽きてそれ以上言わなくなります。

数百人の生徒を相手にしてきた僕にはよくわかります。

「やれやれ、もうわかったよ。覚えましたって。」

という感じです。

ところが、かなりの数の語句を「つなげて言える」「一度も引っかからずに最後まで言える」ことを目標にすると、アホのように繰り返すことをいとわなくなります。

まじめに勉学にいそしむ学生に対してアホとは失礼な、と思われる方もいらっしゃるかもしれません。

が、実際にはこの「場当たり金魚」を通じて僕ほど無意味なフレーズを繰り返している人間はいないだろうと思います。だからあえて言わせていただきます。アホであると。

「つなげて言える」「一度も引っかからずに最後まで言える」ことを目標にすると、少なくとも「繰り返す」口実ができます。

こちらも生徒に「はい、じゃあもう一回」と言いやすくなります。

この時点で、目標がすり替えられているので、ただ単に「個々の言葉を覚える」「覚えた個々の知識を言える」というレベルは、あっという間にパスしてしまいます。

これが「じゅず学マジック」です。

これは、あくまで「引っかからずに最後まで言える」「3回続けて言える」ということを目標にした「ゲーム」だという前提です。

先に「アホ」などと言ってしまいましたが、これはひとつの「逆説」です。

実際には「アホになれる工夫」が大切な訳です。「もうこのくらいでいいだろう」という「こずるさ」こそが大敵なのです。

2.つなげて言えるようになると「繰り返す」ことをいとわないどころか、調子に乗って何度も言う。

つなげていえる状態を一度つかむと、これまでとは状況が一変して、何も考えなくとも口をついてスラスラとフレーズが出てくるようになります。

初めの内は「はい、じゃあもう一回」と言わなければ、なかなか練習しなかった生徒でも、一端覚えてしまったら、こちらから指示しなくても何度でも言うようになります。

「いくらでも言いますけども?」という態度に変わります。

そうならないとウソです。

どんな教科の問題であれ、小中学生からはよく

「もうできたからいいじゃん」

という言葉が聞かれますが、これはウソです。本当にできるなら「何度でもやりますよ、もう一度やりましょうか?」となるはずです。

と、よく生徒に説明します。

実際、頭を少しもわずらわせずに、スラスラと言えるようになると、とても気持ちがいいものです。脳内で確実に「快感」を感じる何かの物質が出ているはずです。

小学生の生徒さんなんかは、自分から「今まで覚えたの全部テストがしたい」と言ってきたり、口が付いていかないくらい限界まで高速で言おうと挑戦したりします。

この「じゅず学」に関しては、「復習の苦しみ?めんどくさい?何それ」なのです。

3.言えるようになるとどこでも復習できてしまう。

これも「じゅず学」の最大の強みの一つです。もっとも「じゅず学」には最大の強みが何個もあるのですが。

「じゅず学」では、一度覚えてしまったフレーズを言うのに時と場所とを選びません。

お風呂の中、トイレの中、自転車通学の途中、バス通学の途中、もちろんショッピングで歩いている途中でも、友達や恋人との話題が途切れてしまった合間でも「復習」できます。

暗誦とはもともとそういうものなので、当たり前っちゃあ当たり前のことです。

然し、果たしてそんな勉強が他にどれほどあるでしょうか?

教科書もノートも筆記用具もなく、寝っ転がっていようが、鼻をほじっていようができる勉強です。

よく「勉強が手に付かない」と言いますが、教科書や問題集を広げ、鉛筆を手にとってじっと座って取り組む、そこまで行くのが、かなりハードルが高いわけです。

しかも無理からその体制を整えても、上の空になってしまいがちです。

そんな人でも「じゅず学」はお勧めです。

たとえ上の空だろうが、繰り返す行為を続けていれば確実に効果があります。

繰り返していると自然とそちらの方面に意識が向きます。気持ちを勉強に向ける「導入」としても、もってこいです。

「じゅず学」を続けていると「復習」すべきフレーズの量もそれなりに増えてきます。

実際には「復習」をサボっていても、めったなことでは忘れることはありませんが、逆に「全く覚えている自信はないけど、言ってみると最後まで言えるんだよなぁ」という逆転現象が起こります。

それが「不安だ」という人もいるでしょう。もちろん定期的に「復習」すれば自信も固まりますが、その際には「すきま時間」を自分でひねり出すことがポイントになります。

そんな場合「言えるようになるとどこでも復習できてしまう」という「じゅず学」の特長の素晴らしさが実感できます。

高校生の頃、生徒を叱る際に「そんな下らないことをする暇があったら英単語の一つも覚えた方がましだ」と言うのが口癖の先生がいましたが、果たして「そんな下らないことをする暇」では「英単語」ひとつ、覚えられませんよ。

でも、「じゅず学」ならいけます。

高校時の先生の言葉は「そんな下らないことをする暇があったらじゅず学の復習をやれ」に改めていただきたいところです。

4.しかも、かなりの分量の知識が数秒で復習されてしまう。

これは説明するまでもないでしょう。

普通の勉強では、覚えた知識を復習するにはそれなりの時間がかかりますが、「じゅず学」ではワンフレーズ数秒です。

もちろん、覚えたフレーズをすべて復習すると、膨大な知識量になりますが、それでも数分です。これぞ驚くべきことです。

「能ある鷹は」何とかと言いますが、僕がこれから「じゅず学」を勧めようとする生徒には初めは数個のフレーズしか実演しないことにしています。

一度にたくさんのフレーズを片っ端からスラスラ言うのを聞いたら、確実に「あ、この人は特別に暗記が得意な人に違いない。とてもマネはできない」と思い込ませてしまう可能性があるからです。

逆にいえば「じゅず学」にはそのくらいの戦闘力・破壊力があるということです。正体を現わすと相手が戦意を喪失してしまいます。

とはいえ、ここに書いてある通りで、何のことはありません。それらは、一つ一つのフレーズをつなげて言えるまで、ちまちまと覚え続けていった結果に過ぎません。

ただ「一度覚えたらめったなことでは忘れない」という「じゅず学」の特長が、こういう結果を生み出す訳です。

また、同じことを覚えている相手に出会ったとしても、相手が一つ一つ思い出して口にしている間に、こちらは一気に総て並べ上げてしまったとしたら…

同じことを知っているだけなのにそこには自ずと「勝敗」めいたものがついてしまいます。

スピードにはそれだけの「権威」があるのです。

5.はじめは暗誦に苦手意識がある人でもだんだん能力が開花する。

僕自身が一番いい例です。学生時代、僕はもともと暗記が苦手でむしろ毛嫌いしていました。

その「暗記嫌い」がこのように「じゅず学」を推進しているわけです。つまり「調子に乗っている」わけです。

この暗誦法は九九が覚えられるなら十分習得可能です。もっとも身近で確実な方法です。

初めは、人によって得手不得手の意識はあると思います。

然し、短めのフレーズであれ、いくつか覚えていくうちにはっきりと自信が付いてくるのが分かると思います。

覚えたフレーズは完全な自分の所有物であり、いくつかのフレーズであれ、そこに盛り込まれた知識量はかなり多いからです。

そして、覚える作業に頭が適応してスピードも次第に速くなっていきます。

フレーズを覚えていくことが、暗誦能力を高める訓練になっているわけです。まさに一石二鳥ではないですか。

もちろん、僕はいい加減な想像で言っているのではありません。

これは、僕が家庭教師をしている関係から一人ずつ試して実見してきたことです。

本人がしり込みしないよう、無理なく、すこしずつ提示して慣らしていけば、少なくともこれまでこのやり方で覚えられない生徒は出会ったことがありません。

まさに、

信頼と実績!まかせて安心「じゅずつなぎ暗唱」です。

6.「じゅず学」は年齢不問。

「じゅず学」は老若男女を選びません。これも大した特長です。

「最近、物覚えが悪くなってきた」という高齢の方が日頃から「数珠つなぎ暗誦」を実践しておられるという話題を、テレビのニュースで見たことがあります。

確か、個人のブログでも目にしたことがあったと思います。年齢が長じても「じゅず学」は追及可能です。これは、僕自身も実感しています。こと「じゅず学」に関しては年齢は関係ないようです。

ですが、むしろ僕が強調したいのは低年齢のお子さんたちにも「じゅず学」は相性がよいという事実です。

「じゅず学」はいわゆる「早教育の弊害」と無縁です。

中学生が対象の知識であろうが、高校生が対象の知識であろうが「じゅず学」の前ではそれらはすべて平等です。「等価」な知識です。

なぜなら、暗誦したフレーズを口にする際、僕たちはそれらのフレーズの意味をいちいち考えていないからです。

録音機能のように再生しているだけです。

そして、暗誦したフレーズは必ず一定の言葉のリズムを作ります。このリズムが体に入ってしまえば忘れなくなります。

これらの過程を一つずつ見直していくと、それは幼稚園児のリズム遊びや、お遊戯の歌の歌詞を覚える過程ととてもよく似ています。

幼稚園児たちは、お遊戯の歌の歌詞を覚えていても、正確にその意味を理解していないことがしばしばあります。

テレビのCMなどの言葉も同様です。面白くて特徴的なリズムや振りを持っている言葉やフレーズは「意味なしで」入ってきます。

僕の妹は二歳くらいの頃、都はるみさんの演歌「津軽海峡冬景色」を完ぺきに覚えていました。

ですが、もちろん意味なんて分かっていたはずがありません。

分かっていたら怖いですよね(笑)。

自分自身のことを思い出しても、僕はカトリックの幼稚園に通っていたのですが、毎日給食の時間には「主の祈り」というお祈りの言葉を言う訳です。

ところが、年長になって卒園するまでの間、毎日繰り返し言っていても、その言葉の意味は最後まで分かっていませんでした。

然し、思い返すことなどめったにない今でもその言葉は覚えています。

そして、今はそれらのフレーズの意味は考えれば分かります。そういうものです。

意味付けは後からで十分なのです。

意味が全く分からないフレーズでもスラスラ口にできればそれは初めから頭の中に解答が入っているのと同じです。

もちろん、解答を持っていても一問ずらして解答すれば全問不正解になるように、その使い方は知っていなくてはなりませんが、使い方を学ぶのはいつでもOKと言ってよいほどです。

覚えることに費やす時間に比べれば大したことありません。

「じゅず学」で覚えるフレーズは大体、

「この知識をすべて覚えていれば、学習を進める上で絶対有利!楽になるよ!」

という部分に焦点がしぼられてきます。

ということは、最適な年齢は、その分野を学ぶ「少し前」が一番いい訳です。

もちろん、原理的にはいくら早くても構いません。

先に書いたように「じゅず学」の原理は、幼稚園のリズム遊びとほぼ同じものであることに加え、無意味なことばの暗誦力は、もちろん幼い子どもの方が何段も上です。

全く意味は分かっていなくとも、高校生相当の知識を身につけている幼稚園児、小学生というものが「じゅず学」では可能になります。

これってすごいことではないですか?

7.長い年月放っておいても忘れない。

何十年もほおっておいたフレーズはさすがにほこりをかぶっているでしょう。

然し、いったんそのほこりを払って確認すると、まもなくそのフレーズは何事もなかったかのように起動し働き始めます。

そう、あたかも、何台も買い替えてとうの昔に使わなくなっていた旧式のノートパソコンの電源を入れると、「俺を眠りから覚ます奴はどこのどいつだ」と言わんばかりに、しぶしぶながら目覚め、昔と変わらず正常に動き始める様子さながらです。

そして、今使っているパソコンがダメになってしまった際などに意外にも役立ってくれたりするものです。

そのようなときに感じます。とっくの昔にゴミとして処分していてもおかしくなかったのに、とっておいてよかったなぁ、と。

「じゅず学」のフレーズにかなりの耐久性があることは、先の項目でも何度か触れたと思います。

僕が本格的に家庭教師を始めて、「古典」を教えるという話になった際、高校の時に暗誦した古典文法は、10年近く経っていたにもかかわらず、ほぼ当時のフォーマットを崩さないまま無傷でした。

「すべて完ぺきに覚えていた」ということです。

極端にいえば、僕は教科書も文法書も何も必要とせず、紙とペン一本あれば授業できる状態でした。これは高校一年のとき担任でお世話になった国語の先生の「しつけ」がよかったからです。

そしてまさに、その時の古典文法の習得法こそ「数珠つなぎ暗誦」そのものでした。

おかげで僕は古典を教えるのに、全く勉強しなおす時間をとらなくて済んだ訳です。

みな、学校でたくさんの知識を学んでいるようですが、実は同じようなことを何度も繰り返しているのが実態だったりします。

小中高と通年で受け持っているとこれはよくわかります。

過去に一度同じような内容をやったことすら覚えていないことも、往々にしてあります。私たちは、一度覚えては忘れ、覚えては忘れを繰り返して「大層勉強した」という気分になっていることが多いのです。

学校のカリキュラム自体そういう前提で作られています。

でもこれって、かなり「意識低い系」ですよね?

そこをいくと「じゅず学」、意識高くないですか?一度しっかり覚えて、スラスラ言えるくらいに完ぺきになったら、10年経とうが忘れない。

トイレにいっても忘れない。暗記パンより優れています。

まあ、普通は、知識が必要なのは大学受験までの数年であったりするのでしょうが、その数年間であれ、「じゅず学」のコストパフォーマンスの良さは、初期に払う労力を補って余りあるものです。

どうですか?

たとえ部分的にであれ、この有効な方法を「採り入れない手はない!」ということが分かっていただけたのではないでしょうか?

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「じゅず学」が描く未来

「じゅず学」

この試みが成功すると、誰かが、

「キミ、フェニルアラニンの構造式は書ける?」

ときくと、

「そんなもん、『このエッチには困るエッチ』に『フェニアラチツベン』だろ。バカにするなや」

ということになります。

「高校で化学は取ってなかったけど、さすがにそれは知ってるわ」という、まるで九九をきかれたような反応です。

確かに、友達に九九を知っているか疑われて、笑顔で耳に手を当て「さんしぃ?」と言われたらはり倒したくなりますね。

然し、九九が小学生の常識であれば、有機化学の構造式だって小学生の常識になって何も不思議ではない、と「じゅず学」は考えます。

必須アミノ酸の構造式がすべて書けるかどうかは、いくつかの数珠フレーズが口にできて、それに従ってアルファベットを並べることができるかどうか、これだけに依存します。

詳しい意味は分からなくとも「アミノ酸の構造式を書けるようになること」は可能です。

意味が分からないと覚えてもしようがない、そんなことはありません。

高校の化学あるいは生物で、そうした知識が前もって身に付いていた場合、学習の上で果たす意味は決定的なものになります。

ここにあげたのは化学の例ですが、もちろん化学に限らず、同じことがあらゆる教科で言えます。

「こと暗誦に関しては、難しい難しくないといった判断の多くは私たちの思い込みに過ぎない」のです。

素人でも入っていきやすいような工夫されたフレーズになっているか。リズムやメロディなど暗誦しやすいフレーズになっているか。この辺りだけがポイントになります。

そういう意味では僕自身、まだ十分に納得できるフレーズを作れているとはいえません。

誰かが僕のフレーズを見て、より優れたものを作って示してくれたら、すでに古いフレーズで覚えている僕たちにとってはそれほど恩恵はないとしても、「じゅず学」全体の発展にとっては大きな意味を持ちます。

10歳に満たない子どもの多くが一ケタのかけざんの結果をすべて暗誦しているという状況は決して「ふつう」のことではありません。

普通の高校生が、2、3、5、7といった素数の正の平方根を7ケタ~9ケタ覚えているという状況もやはり「ふつう」のことではありません。

それらは「みんな知っている」から「覚えるのに大した苦労がない」から「ふつう」のことだと思われていますが、実際には、日本語という言葉の利点を最大限に使って、誰かが考えたから「比較的簡単に」習得できている訳です。

他の国の言葉で同じことをしようとしても必ずしもうまくいかないでしょう。

そしてこれらの「誰かが考えた」数珠つなぎ暗誦は、日本語圏全体に広がることで、日本人全体の教養と文化程度を引き上げているのです。

とすれば、もしこのことを自覚的に利用して、多くの人々が参加して「じゅず学」を研究した場合、何が起こるのかは明らかです。

そこで生み出されるたくさんのフレーズの内、誰にでも覚えやすいフレーズは必ず一般的になり誰でも知っている「ふつう」の知識になります。

誰もが「さすがにそれは知ってるよ」という「ふつう」の知識が増えていけば、それは気がつかないうちに日本人全体の教養のレベルが上がっていることを意味します。

日本語圏に生まれたというだけで自然と知的水準が高くなる、日本語を使う国に生まれたことが最大の財産、という状況です。

それは「驚くべき未来」ではないでしょうか?

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