天皇即位年語呂(継体~後醍醐)【年号ゴロ合わせ】

YouTubeに音声教材を作ってあげています。こちらです。

*これは年語呂年註―日本史版の一部です。他も良ければどうぞ。語呂合わせの規則については『こちら』を参照してください。

*説明については漸次追加していきます。


507 史実では始まりこれなと継体帝
*史実では現在の王朝の始まりはここからだとよく言われています。

531 込み入った世には相応わず安閑帝
*『安閑』とは気楽・のんきといった意味がある言葉なので、当時の様々な思惑が渦巻く『込み入った世』には相応しくないね、という意味です。

535 古代には御子あったと宣化帝
*『日本書紀』を読むと継体帝の晩年にクーデターがあって天皇とその子ども、孫が死んだらしいということが百済系史書から引用されていたりします。ホントだとすると次の『欽明帝』まで一挙に飛んでしまう訳です。『古代にはこの御子があったとせんか?(しようかどうしよう?)』という語呂です。

539 半島の工作悩ます欽明帝
*欽明帝時代の倭(日本)は朝鮮半島と熾烈な政争を繰り広げていたことだけは確かです。百済との関係は『実利』に基づいたもので日羅が百済の『九州植民計画』を暴露したように、基本的にはいずれも『仮想敵』でした。遠く離れた半島情勢は列島には中々正確に伝わらずうまく『かつがれ』ていたのが実際です。

572 なにも敏い帝と敏達帝
*『敏達』は『さとい・賢い』という意味なのでそのまま語呂にしました。

585 やこう使い方はと用明帝
*これも『用明』が『用い方に明るい』と読めるので『こうやこう、使い方は』という語呂にしました。

587 古代からってん崇峻帝
*崇峻帝は蘇我馬子の謀略によって暗殺されました。『古代からこうゆうことばっかりやってんだなあ』という感想です。

592 の初の女帝は推古帝
*蘇我馬子と共同で実権を握っていたことは間違いないでしょう。そのための『女帝』即位と思われます。二人は崇峻帝以前から協同していた節があります。これは勝手に言っているのではなく、日本書紀に書いてあることです。当時はいまだ政権の安定のために代替わりごとにクーデターや粛清が必要悪だった時代でした。一時的に『百済』や『新羅』と同様の半島型の仏教国家に舵を切ったと思われる時期です。

629 温泉にかって尽くる舒明帝
*やたらと温泉に行っていたイメージが強いのでこんな語呂になってしまいましたが、病弱だったのでしょうか?いまだ、蘇我氏が実権を握っていた時代です。『息長』氏系で中大兄皇子の父親に当たります。

642 かう世に夫亡き後皇極帝
*夫である舒明帝が亡くなって即位し『世の中に向き合う』という意味です。中大兄皇子の母です。蘇我蝦夷入鹿親子を滅ぼしたクーデターである乙巳の変が起こり孝徳帝が即位します。

645 虫殺し成って即位の孝徳帝
*『虫殺し』は有名ですね。『乙巳の変』です。中大兄皇子(葛城皇子)が動きやすくするための体制だと言われています。

655 崩御まで向こ5年は斉明帝
*中大兄皇子の母である『皇極帝』がもう一度即位します。これも異例です。道教祭祀を行うための岩石を加工した施設が発掘されています。『日本書紀』にも『多くの土木工事を行った』ことが記されています。
*半島で百済が滅亡し再興のため当時人質として来朝していた太子『豊璋』を送りました。九州の朝倉宮に遷りましたが斉明帝は九州の地で崩御します。

661 集権に向かえる無比な天智帝
*中央集権に向けて尽力したという通説を背景にした語呂です。
*この年号は斉明帝の崩御を受けて『称制』を敷いた年です。実際の即位は668年になります。『称制』下で半島に出兵が行われ、白村江の戦いで唐新羅軍に大敗を喫しました。
*その後の天智帝は唐の遠征に備え水城・大野城や烽火・防人を設置し、近江大津宮(琵琶湖湖畔)に遷都しています。初めての戸籍である『庚午年籍』も作られました。

671 長いこと名前無な人弘文帝
*天智天皇の息子大友皇子です。天智天皇の崩御後半年ほどで『壬申の乱』により叔父の大海人皇子に敗れて24歳の若さで死んだので即位したのかどうかも定かではありません。明治に入って初めて『弘文天皇』というおくり名が贈られました。『天皇』としては長いこと『名前無な人』だったわけです。

673 暗殺の胸騒ぎして天武帝
*病の床にあって天智天皇が譲位を持ちかけた際と天智天皇が崩御した後のあわせて二度、天武天皇(大海人皇子)を殺そうとする動きがあったという『日本書紀』の内容を受けての語呂です。この動きを受けて大海人皇子は挙兵し『壬申の乱』を経て『天皇』として即位するのでまさに『暗殺の胸騒ぎして』『天武帝』になったということです。
もっとも『天皇』号は天武天皇から始まったらしいという話も今では有名になりました。

686 理でもやろう持統帝
*夫である天武天皇の崩御を受けて『称制』を敷いた年です。父は天智天皇です。天武天皇の崩御後の『称制』下で子である草壁皇子が即位するはずでしたが、689年に草壁皇子が病死したため、草壁皇子の子である軽皇子(当時7歳)が長じるまで皇后が即位することになりました。それが690年のことです。『無理でもやらなしゃーない』訳です。
*『飛鳥浄御原令制定』と『藤原京の造営』とが実現しました。

697 天壌の無窮な世願う文武帝
*持統天皇のおくり名は『高天原広野姫天皇(たかまのはらひろのひめのすめらみこと)』で孫に当たる文武天皇(軽皇子)に譲位していることから、高天原の『天照大神(アマテラスオオミカミ)』が天孫ニニギノミコトに天下の統治を委ねて天降す『天孫降臨』の神話のモデルになったという説があります。このときに『天照大神』が、天孫の統治は『天壌(あめつち)とともに窮まりなかるべし』と言ったという話は『天壌無窮の神勅』といって戦前は有名だった訳です。語呂はこれを踏まえて『天壌(あめつち)の(様に)無窮な世の中』を願う文武帝と引っ掛けてみました。
*文武天皇の時代に大宝律令(701)が完成します。

707 天皇にったの元明帝
*これはまたベタな語呂な訳ですがそのまま『天皇になった女性』ですね。間違いないです。草壁皇子の妻で文武天皇の母、父は天智天皇です。文武天皇が25歳で崩御してしまったため孫の首皇子(おびとのみこ:聖武帝)が長じるのを待つため即位しました。
*秩父から和銅(国産銅)が献じられた(708)ことで『和銅』と改元『和同開珎』が鋳造されました。
*その他『平城京』遷都(710)『古事記』の撰上(712)『風土記』編纂の詔勅(713)と重要な事績が元明帝時代になされました。

715 史書も成り行こうみなで元正帝
*『史書もなり』は元明帝時代に成立した『日本書紀(720)』です。『古事記』は『史書』ではありません。『史書』というのは中国的な概念で『日本書紀』がこれに対応しています。対して『古事記』は列島的な政治理念を反映した『古言(ふること)』を記定したものです。要は神話・伝説を系図と組み合わせた集成であり、これは史書ではありません。『なぜ二つも史書があるのか!?』と問いかける文章をたまに見ますが、根本的な理解ができていないのだと思います。
*元正帝は文武天皇の姉に当たります。高齢を理由に元明天皇の譲位をうけました。やはり首皇子(聖武帝)へのつなぎです。
*日本書紀編纂のすぐあと(同年)に日本の律令制完成の立役者である藤原不比等が死去しています。

724 崇仏の天皇の名に聖武帝
*崇仏(熱心な仏教信仰)を行った天皇の名に『聖』の字が入っている、という語呂です。天皇ではありませんが『聖徳太子』にも『聖』の字が入っていますね。仏教伝来後は主に仏教上の有徳者を『聖(ひじり)』と言いました。
*上代年語呂にも作っていますが乱脈な遷都を繰り返しました。皇后の光明子とあわせ、実際にはごく『普通』のお人好しの夫妻であったのでしょう。『普通』の人の好い御主人が政治の頂点に立ってはいけないのだなぁと考えさせられます。
*ところが他方で乱脈に行った事績がその後の宮廷の伝統につながっていくという例が多々あるのが面白いです。
*二代にわたって『中継ぎ』の女性天皇を据えての待望の男性天皇だったはずですが聖武天皇は自ら『譲位』を宣言した初の男性天皇となります。しかも聖武天皇には男子がなく一人娘の阿倍内親王が即位し光明皇后が皇太后として後見することになりました。
*光明皇太后は藤原氏出身で史上初めて人臣から皇后となりました。

749 問題の割には名良く孝謙帝
*書くと長くなるのでここには書きませんが『色々と問題がある』天皇だったのですがその割には名前は良くて『孝謙(孝行で謙遜)』となっていますねと言う語呂です。音だけで『問題行動の割には名前は「貢献」って…』と解してもいいです。
*皇太后の甥に当たる藤原仲麻呂の権勢が高まりこれに対する危機感から『橘奈良麻呂の乱』が起きました。

758 不運に泣こうや淳仁帝
*聖武天皇の遺言で立太子した道祖(ふなど)王が孝謙天皇の不興を買い『皇太子として相応しくない行動がある』として廃された後、藤原仲麻呂の強い推挙のもとで立太子しました。その後、孝謙天皇が皇太后の看病を理由に譲位したことから天皇として即位しました。
*その後『太上天皇(上皇)』となった孝謙上皇は自身の病気を治した『弓削道鏡(ゆげのどうきょう)』を寵愛するようになります。このことについて仲麻呂の進言にしたがい淳仁天皇が上皇を諫めたところ上皇は激怒し『これから先は政治の実権は自分が握る』旨を宣言します。
*上皇との対立から『藤原仲麻呂(恵美押勝)の乱』が起こり、淳仁天皇も仲麻呂との関係が深かったことを理由に『廃位』され淡路島に流されました。逃亡をはかりますが失敗し恐らく殺害されたのだろうとされています。太上天皇の追号も行われず、葬礼の行われた記録もなく『廃帝(淡路廃帝)』として長らく天皇として認められていませんでした。

764 結局は世の中南無よ称徳帝
*孝謙天皇が重祚(一度退位して再び即位すること)して『称徳天皇』となります。先に書いた様に『弓削道鏡』を寵愛したことで有名で『太政大臣禅師』を贈って政治的な権力も与えようとし始めます。こうした背景の中で起こったのが『宇佐八幡宮神託事件』でした。
*一方で仏教を重視した政策を推し進め、西大寺や西隆寺の建立、百万塔の製作などが行われました。『結局は世の中「南無」よ』というちょっと皮肉の交じった語呂です。

770 中々アな天皇光仁帝
*天智天皇の孫に当たりますが8歳で父を亡くし最初の叙階が29歳、皇后となる井上内親王(38歳)との結婚が45歳のときと皇族とは思えない昇進の『遅さ』です。そして称徳天皇の治下で多くの皇族が政変により粛清され、結果的に聖武天皇の血を受け継ぐ子が女系の井上内親王の子、他戸(おさべ)王しかいなくなったことで『光仁天皇』の即位が実現します。これが62歳のことです。中々『レア』ですよね。『レアな天皇』と『公認定』と覚えるとつながりがいいです。
*後に井上内親王と他戸王は『呪詛』を行ったという嫌疑で皇后・皇太子を廃され、高野新笠の産んだ山部親王が皇太子に立てらます。つまり、聖武天皇系ひいては天武天皇系の皇統はこれで完全に絶えてしまいました。

781 名は一つ頭抜けてる桓武帝
*もちろん造営中の長岡京を放棄して行った『平安京遷都』や、蝦夷征討を行ったことによって非常によく知られています。知名度は他の天皇に比べ『頭一つ抜けている』天皇です。
*光明・桓武天皇辺りから政争の犠牲になって死んだ皇族や貴族の『祟り』ということが『陰陽師』を通じて盛んに説かれ始めます。もちろん迷信ですが『お化けへの恐れ』というのは最も原初的な罪悪感・良心の現れであると言われます。
*母が百済系渡来人和(やまと)氏の高野新笠(たかのの にいがさ)で身分が低かった桓武天皇の即位の裏には藤原百川(ふじわらの ももかわ)の暗躍があったと言われます。藤原百川に対する信任は光仁天皇、桓武天皇ともに非常に厚かったとされています。政治家として優れていたことは間違いないでしょう。

806 いつの日か心は晴れむ平城帝
*桓武天皇の長子です。病気がちだったため即位からわずか三年で弟の嵯峨天皇に譲位し上皇となり平城京に移り住みます。妃の母であった藤原薬子(ふじわらの くすこ)を寵愛しその兄、藤原仲成なども介在して『平城京遷都の詔』を出し、再び政権を握ろうとします。ところが嵯峨天皇に機先を制せられて失敗し、剃髪して仏門に入り薬子は自殺、仲成も殺されました。(薬子の変)
*『平城』は『へいぜい』と読むので『いつの日になったら心が晴れて平生に戻るのか』という意味でつなげると覚えやすいです。

809 で達筆ふるう嵯峨天皇
*平城天皇の弟に当たります。嵯峨天皇といえば空海、橘逸勢(たちばなの はやなり)とともに『三筆』に数えられる能書家ですからこの語呂になりました。
*嵯峨天皇時代に死刑が廃止され中央政界では保元の乱まで死刑は廃絶されていました。

823 世はもっと良くなるはづさ淳和帝
*桓武天皇の子ですが平城・嵯峨天皇とは母親が違います。もと大伴(おおとも)親王といって、即位した際、天皇の名と同じ姓になることを憚った大伴氏は『伴』氏に改姓します。
*そもそも政争に巻き込まれることを危惧して自ら『臣籍降下』を願いでて引き留められた経歴の持ち主で、即位後も清原夏野(きよはらの なつの)などの人材を登用し地方政治の荒廃を正し土地政策により税収の増加に努力しました。
*在位10年で嵯峨天皇の子である仁明天皇に譲位します。
*『世はもっと良くなるはづさ!純な帝』という洒落です。比較的清廉なイメージからこのような語呂にしましたが、当時は嵯峨上皇の政治的影響力が大きく働いていたのも事実です。

833 子への愛は闇見る如き仁明帝
*藤原良房が行った藤原北家による他氏排斥の初めとされる『承和の変』が起こり、橘逸勢と伴健岑(ともの こわみね)は謀反の罪で流罪となり、皇太子であった淳和天皇の子恒貞(つねさだ)親王は廃され、仁明天皇の子道康親王(文徳天皇)が皇太子となりました。当然そこには息子に皇位を継がせたいという仁明天皇の意思も透けて見られます。『子への愛は闇見る如し』とはこれを背景にした語呂です。

850 かなわねば文をも焼こう文徳帝
*『文をも焼こう』は『文徳帝』に引っ掛けるために置きました。実際、藤原良房の権勢のもと、自分の意向を政治決定に反映できず消極的反抗の表現の中で生涯を終えました。

858 源氏長者のとび出す箱は清和帝
*後に武門の棟梁となる『清和源氏』の源流に位置する天皇ですがこの頃はその気配すらありません。ということで『びっくり箱』のイメージで語呂にしました。
*わずか8歳で即位し、26歳で長男である9歳の貞明(さだあきら)親王(陽成天皇)に譲位しました。
*866年の応天門の変を経て同年藤原良房が初の人臣摂政となります。そう『摂関政治』の始まりな訳です。

876 なろう玉の位も陽成帝
*天皇の位を『玉の位』として『太陽(光球)』の『陽』と引っ掛けました。
*母、藤原高子(ふじわらの たかいこ)の兄、基経(もとつね)が摂政となりましたが、清和天皇の崩御後、高子と基経の間に不和が生じ、基経は出仕を拒否するようになりました。
*こうした背景から陽成天皇は満15歳で退位します。
*もともと奇行の多い天皇であったと言われ、退位の直接の原因も乳兄弟の撲殺がらみであったと言われています。譲位後も様々な奇行が見られたと記録されています。

884 ややしばし皇位与る光孝帝
*良く出来ていると言ってはいけないのかもしれませんが、多くの血を流した『天武系の皇統』がきれいさっぱり拭い去られたのと同様に、多くの人間の思惑が絡みついた文徳‐清和‐陽成の皇統も途絶して、仁明天皇の子である光孝天皇が55歳で即位します。
*光孝天皇は自らの皇位を一代限りとして、自分の子女を皆『臣籍降下』させました。政争に巻き込まれないための安全策でしょう。『ややしばし(しばらくの間だけ)皇位あずかる』という語呂はここからきています。
*ところが、高子と基経の間の対立は解消されることがなく、結局光孝天皇の子である源定省(みなもとの さだみ)が皇族に復帰する形で即位することになります。これが宇多天皇です。

887 改革の意志宇多天皇
*即位後すぐに基経に対し『万機を関(あづか)り白(まを)せ』という万機関白の詔を下し大政を委ねようとします。が、基経が儀礼上一度辞退した際に改めて下された『阿衡(あこう)の任を以て、卿の任となすべし』という詔に対し、基経の側近である藤原佐世(すけよ)が『阿衡は位は高いが実権の伴わないものである』と進言したため、基経は一切の政務を放棄し半年も引きこもってしまいます。結局天皇が折れて、勅書を起草した橘広相を罷免し自らの誤りを認める詔を出さざるを得ませんでした。(阿衡事件) 藤原基経は史上初の『関白』です。
*基経死後、天皇は基経の子の時平を重用しつつも、菅原道真など藤原北家以外の有能な人物を積極的に登用しながら後に『寛平の治』と言われる政治改革を積極的に推し進め『日本三代実録』や『類聚国史』の編纂も行いました。『改革の意志バリバリ』の語呂はここから作っています。

897 治は明白な醍醐帝
*一般に醍醐天皇と子の村上天皇の治世をたたえて『延喜天暦の治』と言います。そこから作った語呂です。『治は明白な』は明らかに治まっているという意味です。『ハクナ(897)』で897年です。
*藤原時平との間で謀って、菅原道真を大宰府に左遷しました。
*初の勅撰和歌集である古今和歌集が編纂されました。

930 腐れつつある世を治む朱雀帝
*朱雀天皇の治下935年に関東で平将門の乱、939年に瀬戸内海で藤原純友の乱が起こります。二つを合わせて『承平天慶の乱』といいます。中学から『武士の起こり』として習いますが、反乱を起こした側、これをおさめた側、どちらも発生期の『武士』が絡んでいます。新しい時代の始まりと現代からは言いますが、当時の目で見れば当然『腐れつつある世』な訳です。『すざく』とのつながりは個人的には熟し切った『ザクロ』の実のイメージです。
*藤原忠平が『摂政』続いて『関白』をつとめました。

946 いつの世も上は苦心上帝
*朱雀帝時代に続き、藤原忠平が『関白』をつとめましたがその死後は摂関を置かずその治世は『天暦の治』と称えられました。左大臣は藤原実頼(さねより)、弟の師輔(もろすけ)が右大臣をつとめました。
*『承平天慶の乱』鎮圧後の財政難や内裏焼失もあり『いつの世も上は苦心』としました。『村肝の』は『心』にかかる枕詞で『むら雲』は迷いや悩みを意味します。『上』と『上』もかかっています。
*『後撰和歌集』が編纂されました。

967 湧き上がる苦労な病気の冷泉帝
*藤原実頼・弟の師輔兄弟が実権を握る中18歳で即位しましたが元来、精神の病で実頼が関白をつとめました。このことから『湧き上がる苦労な病』としました。『湧き上がる』は『冷たい泉(いずみ)』につながるように置きました。『クローナ(967)』です。
*内裏が焼失したことで、大極殿で行われていた即位式を初めて紫宸殿で行いました。
*為平親王と守平親王(円融天皇)の間で後継を巡る争い『安和の変(969)』が起こりました。為平親王の妃の父にあたる左大臣源高明が謀反に加担したとされ、太宰府に左遷されました。

969 黒くなる都の支配 円融帝
*兄の為平親王を飛び越えて皇太子となり『安和の変(969)』後に11歳で即位しました。このため藤原実頼が摂政となりました。970年に藤原実頼が死去すると藤原 伊尹(これただ)が引き継ぎ、972年伊尹も亡くなると藤原兼通(かねみち)が関白、兼通が重病に陥ると藤原頼忠(よりただ)が後を継ぎました。後に主流を形成する藤原兼家は当時は不遇でした。
*摂関を巡って争いが繰り返される様子から『黒くなる都の支配』としました。『クロク(969)』です。

984 霊場の修行に詳しい花山帝
*冷泉天皇の子です。17歳で即位して2年足らずで寵愛した女御、藤原忯子(しし)の死亡をきっかけに出家してしまいますが、その裏に出家をそそのかした藤原兼家・道兼父子の陰謀があったということが『大鏡』などに記されています(寛和の変)。
*多情で知られ、多くの奇行を行った記録がある一方で、奈良時代の徳道上人の開いた三十三箇所の観音霊場の宝印を、それをおさめた中山寺で探し出し、自ら三十三所巡礼を行ってこれを再興しました。これが今日の『西国三十三所巡礼』として今日まで伝わっています。もちろん語呂もこれを言ったものです。『クワシー(984)』です。

986 外戚に心配ろう一条帝
*円融天皇の第1皇子で、花山天皇の出家を受けて満6歳で即位しました。もちろん、藤原兼家が摂政に就任しました。兼家の死後は、長男の道隆が外戚として摂政・関白を務め、娘を天皇の皇后とします。これが『枕草子』で有名な清少納言が仕えた、中宮定子です。
*道隆の死後、道隆の子の伊周と、道隆の弟の道長が争い、道長が勝ち藤原氏の権勢が最盛期に至ります。道長も、娘を天皇の皇后とします。これが『源氏物語』で有名な紫式部や和泉式部が仕えた、中宮彰子です。
*摂関政治最盛期ということで、外戚に心『クバロー(986)』としました。

1011 外戚に遠い人なり三条帝
*冷泉天皇の子です。外祖父の兼家の後ろ盾のもと立太子し、一条天皇の病死を受けて即位しました。この後は冷泉天皇の弟、円融天皇の皇統が続いていきます。
*親政を望む天皇と孫を早く天皇にしたい道長との関係は芳しいものではありませんでした。『外戚に遠い人なり』とはここから作った語呂です。『トーイヒト(1011)』です。
*眼病を患い、薬のせいで反って失明に近い状態になってしまいます。結果、子の敦明親王の立太子を条件に後一条天皇に譲位しますが、その後、道長は敦明親王に圧力をかけ、結局、皇太子を辞退させてしまいました。

1016 人の運十人十色後一条
*中宮彰子が産んだ一条天皇の子です。もとは藤原道長摂政の年として『人の運十人十色道長摂政』としたものです。道長の強運を冷やかした語呂ですが、こちらはどちらかと言えばその反対の意味です。8歳で即位し、道長の娘の威子を中宮としましたが、皇子に恵まれず29歳で崩御しました。

1036 強欲な人を去ろうと後朱雀帝
*後一条天皇の弟に当たります。敦明親王の皇太子辞退をうけて皇太子となり、道長の六女の嬉子、道長の外孫の禎子内親王が入内します。禎子内親王が産んだ尊仁親王が、後の後三条天皇です。
*荘園の増加による国家財政の圧迫に対し『荘園整理令(1040年)』を出しますが、藤原頼通ら権力者が荘園の主な領主であったため、思うように効果を上げることができませんでした。
*病気になり死の間際になって、摂関家と関係の薄かった尊仁親王を次の皇太子にするよう遺詔を発したと言われます。『強欲な人を去ろう』はここから採った語呂です。次の後冷泉天皇の語呂と共に『後―よく』なので『後(ご)』が付く天皇です。

1045 強欲な人を横目に後冷泉
*道長の六女の嬉子が産んだ後朱雀天皇の第一皇子です。
*この時代にも『荘園整理令』が出されますが、それ程大きな効果は上がりませんでした。
*『強欲な人を横目に』と言うように、積極的に何かを行なったという訳ではありませんが、摂関家が3人もの皇后を入内させて皇子の誕生を望んだにもかかわらず、皇子は得られませんでした。そうした意味では大きく歴史にかかわっています。

1068 もう一度政権とろ後三条


1072 上下の人同じにする白河帝


1086 父である人を病むのは堀河天皇


1107 権力はひと通る鳥羽天皇


1123 人々にさんざんやられる崇徳帝


1141 お飾りで過ごしていいよい近衛帝


1155 いい子御免だ後白河帝


1158 噂に聞いてる頭のいい子は二条帝


1165 その生涯いちいち惨い六条帝


1168 院と平の人々むやみに高倉帝


1180 平家一門人々晴れて安徳天皇

1183 以後みかどの人々闇の後鳥羽帝

1198 いい鍬で掘る土御門

1210 治めたのいつ?順徳天皇

1221 鎌倉の人に不意打ち承久の乱<仲恭天皇→後堀河>

1232 祟り神いつ身に及ぶ四条帝

1242 いつの世に浮かぶ瀬がある後嵯峨帝

1246 子を天皇に意地でもしろと後深草

1259 亀山帝伊勢に願うはひつこく絡む異国降伏

1274 後宇多帝とっとといになよ元の奴

1287 大覚寺の人に離れて伏見の即位

1298 持明院のまま引き継ぐは後伏見帝

1301 両統で勲等しく後二条帝

1308 学問の意味をはっきり知る花園帝

1318 一切はみかどの物と後醍醐天皇

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