古代ギリシア[アテネ政治史]年語呂【年号ゴロ合わせ】

*これは『テンプレ世界史古代ギリシア特集』の一部です。このページでは『アテネの政治史』を中心とした古代ギリシア史の概略をゴロ合わせで覚えていきます。

音声で耳から覚えるためにYouTubeに音声教材をあげています。こちらです。リズムをつかむために是非一度聞いておくことをお勧めします!また、ゴロ合わせの基本的なルール(規則)についてはこちらを参考にしてください。

『年語呂年註』目次ページはこちらです。

*上の地図の地名については次のページを確認してください。こちらです。


<アテネの政治>
ドラコンの成文法制定
前621年 無二1番最初のドラコン成文法

ソロンの改革
前594年 借金のカタに酷使を禁止ソロン改革

僭主ヒッピアス追放
前510年 強盗僭主のヒッピアス

クレイステネスの改革
前508年 民主制これは始まりクレイステネス

ペルシア戦争(~479)
前492年 よー国守ったペルシア戦争
・マラトンの戦い
前490年 よくめた勝利のマラトン
・サラミスの海戦→翌年(479)プラタイアの戦い
前480年 よーやれ無産市民の漕ぎ手サラミス海戦

デロス同盟アテネが盟主
前478年 協力しなやデロス同盟

ペリクレス時代(~429)
前443年 ペリクレスよし民主制完成期

ペロポネソス戦争(~404)→スパルタの覇権
前431年 よさーいーのにペロポネソス戦争

レウクトラの戦いテーベの覇権(スパルタに勝利)
前371年 皆一斉にテーベに流れるレウクトラ

カイロネイアの戦い
前338年 フィリポス2世に散々やられるカイロネイア

無二1番最初のドラコン成文法 (ムニイチ)前621年

ドラコンはそれまであったアテネの不文法文字化したということで最初の成文法を作りました『一番最初』ということで『唯一無二』ですね。『(唯一)無二の一番最初の成文法』ということです。

借金のカタに酷使を禁止ソロン改革 (コクシ)前594年

ソロンはアテネの政治家で教科書では『貴族と平民の調停者』と書いています。土地財産の多少によって全市民を4等級に分け、参政権と兵役義務を分配しました。『財産政治』の時代を代表しています。

*ソロンは負債を帳消しにし、以後借財を負った市民を奴隷化することを禁止しました。『借金のカタに酷使を禁止』というのはこれを言ったものです。

強盗僭主のヒッピアス (ゴートー)前510年

*『僭主』とは平民の支持を受けて貴族政を抑え実力で政権を握った者のことです。この年号は『僭主ヒッピアスが国の政治権力を強奪した『強盗』ということで追放された年です。『僭主』としてはペイシストラトスが有名ですがヒッピアスはこれを継いだ息子です。

民主政これは始まりクレイステネス (コレハ)前508年

クレイステネスの改革は『民主政の確立期』とされます。過渡期であった『僭主政治』を再現しないために設けられた『オストラキスモス(陶片追放)』の制度が有名ですね。僕が高校生のころから教科書に写真でのっている『テミストクレス』と刻まれた陶器のかけらね。○に+で『T』なんやーと訳の分からん感動したのを覚えています。

*これはアテネの『民主政』の長い歴史から見ると『始まり』です。

よー国守ったペルシア戦争 (ヨークニ)前492年~

*『』がギリシア世界を意味するのかポリスを意味するのかは曖昧ですがフレーズの単純化のためこうしました。アケメネス朝ペルシアに対してギリシアのポリスの連合軍が勝利をおさめた戦争です。

よくめた勝利のマラトン (ヨク・オ)前490年

*『マラソン』の語源になった戦いですね。平民の重装歩兵が活躍しました。

よーやれ無産市民の漕ぎ手サラミス海戦 (ヨーヤレ)前480年

*『無産市民』が『漕ぎ手』として頑張ったことで政治的な地位が高まったという情報を入れました。海軍の改革をしたのがペリクレスですね。『プラタイアの戦い』はペルシア戦争の勝敗を決定づけた戦いでサラミスの海戦の翌年(479)と覚えます。一応この年がペルシア戦争の終結した年です。
参考:プラタイアの戦い(前479)『ペルシア良-なくプラタイア』

協力しなやデロス同盟 (シナヤ)前478年

*アケメネス朝の復讐に備えて結ばれた同盟です。ペルシア戦争で指導的役割を果たしたアテネは盟主になりました。

ペリクレスよし民主制完成期 (ヨシミ)前443年

これもそのままですね。ペリクレスの時代にアテネの『民主政』が完成したということです。『民会』を最高決議機関として任期1年の『役人』は市民から抽選で選ばれました。参政権は『成年男子の市民』です。共同体の為に血を流すものに権利がある訳です。

よさーいーのにペロポネソス戦争 (ヨサーイー)前431年

*『ペロポネソス同盟』のリーダーであるスパルタが新興のアテネに警戒感を抱き始めたのはこの時に始まったことではないのですが、ペロポネソス戦争で雌雄を決しアテネが破れます。後半アテネは『衆愚政治』に陥っていたと言われます。

皆一斉にテーベに流れるレウクトラ (ミナイ)前371年

*名高い将軍エパミノンダス率いるテーベ軍がスパルタを撃破した戦いです。一時は覇権を握ったテーベですが、その後スパルタとアテネが手を組みテーベと戦った『マンティネイアの戦い(前362)』で将軍エパミノンダスが戦死したのち衰退していきました。

*(参考)
『(アテネ・スパルタ)見ろつながっちょーあんさんマンティネイア(ミロツ)前362

フィリポス2世に散々やられるカイロネイア (サンザンヤ)前338年

*幼少期にテーベに人質に出され、そこで将軍エパミノンダスに見込まれて家中で教育を受けた小国マケドニアの王子が祖国に帰って後即位し、マケドニアテーベ・アテネ連合軍を破る強国にまで押し上げてしまうという嘘のような本当の話です。

フィリポス2世の子がアレクサンドロス3世(大王)で大征服(前334~)を行います。

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