清末年語呂【年号ゴロ合わせ】

*これは年語呂年註-世界史版のひとつです。このページでは、清の歴史の後半から清崩壊後の中国の歴史をゴロ合わせにそって見ていきたいと思います。前半についてはこちら

*音声で耳から覚えるためYouTubeに教材を上げています。こちらです。文字だけではリズムをつかみにくいフレーズもスムーズに覚えられます。ぜひ一度聞いてみることをお勧めします。


清末年語呂

―嘉慶帝―

・嘉慶帝(7代)
1796〜1820 嘉慶帝、批難・苦労言わず負

・白蓮教徒の乱
1796 批難組む人白蓮教徒

・乾隆帝死去
1799 人泣く急逝乾隆帝

・阮朝(越南国)成立(→西山朝滅亡)
1802 タイソン人は鬼に魅入られ滅亡す

・白蓮教徒の乱が鎮圧
1804 白蓮教の人は惜しくも鎮圧される

・アマ―ストが全権大使として清を訪れる
1816 英使節一杯向かわすアマ―スト

―道光帝―

[朝鮮] 大院君生没年
1820〜98 外国に一発お灸や大院君

・林則徐が広州でアヘン没収
1839 口実にい―わサンキュ―林則徐

・アヘン戦争
1840〜42 人は知れ世に言うこれがアヘン戦争

―咸豊帝―

・咸豊帝(9代)即位
1850 い―わコレ優しい子やと咸豊帝

・洪秀全の太平天国
1851〜1864 反清の人は来い来い太平天国

・曾国藩の湘軍が江西遠征
1853 命令はこ―さと無視して湘軍遠征

・アロ―戦争
1856〜60 英仏の人は頃みてアロ―戦争

・アイグン条約
1858 新しい範囲はこ―やアイグン条約(5月)

・天津条約
1858 外国の人は怖いと天津条約(6月)

・北京条約
1860 沿海州い―やろおくれと北京条約

[朝鮮] 東学党の創始
1860頃 崔済愚一派群れなし東学党

・総理各国事務衙門設置
1861 外交にい―やろいっちょ事務衙門

―同治帝―

・同治帝(10代)
1861〜75 西太后『同治帝い―やろい―なこの君で』

・李鴻章が淮軍組織
1862 いばろ―強いぞ李鴻章淮軍

・太平天国が滅亡(天京陥落)
1864 太平天国い―わ無用と滅亡す

[朝鮮] シャ―マン号事件(朝鮮)
1866 米帆船はろくろく交渉できず沈没(7月)

・[朝鮮] 辛未洋擾(しんみようじょう)
1871 やられても負けたと言わない辛未洋擾

・日本が台湾出兵
1874 清朝にい―話ない台湾出兵

―光緒帝―

・[朝鮮] 江華島事件(9.20)
1875 始まりは嫌な江華島事件

・[朝鮮] 日朝修好条規
1876 朝鮮は嫌んなろうや修好条規

・琉球領有→琉球藩を廃して沖縄県へ
1879 琉球の人は無くなり沖縄へ

・イリ条約
1881 ロシアは嫌やイリ条約

・[朝鮮] 壬午軍乱
1882 閔氏らの一派やっつけ壬午軍乱(7.23)

・清仏戦争
1884 ベトナムを狙っちゃ嫌や清仏戦争

・[朝鮮] 甲申政変
1884 急進の一派は鎮め甲申政変

・天津条約
1885 争いは嫌やこうしょと天津条約

・[朝鮮] 金玉均が暗殺される
1894 急進の一派苦しい金の暗殺(3.28)

・日清戦争
1894 日清の人は苦しい日清戦争(7.25)

・孫文が興中会を創設
1894 ハワイは急用興中会(11.24)

・下関条約(→露仏独三国干渉)
1895 三国の人焼くこんな条約は

・ロシアが東清鉄道敷設権(露清密約)
1896 枕木ロシアの人は組む

・[朝鮮] 大韓帝国
1897 逼迫名乗るわ大韓帝国

・ドイツの膠州湾租借
1898 租借地だらけで清もいよいよ逼迫や(3.6)

・戊戌の変法
1898 康有役はもちろん変法自強(6.11〜9.21)

・ジョン=ヘイ門戸開放提唱
1899 ジョン=ヘイはギュ―ギュ―開けと門の戸を押す

・義和団事件
1900 清朝を助けに行く俺義和団事件

・北京議定書
1901 北京議定書敗れた清の人暗れい

・日露戦争
1904 日と露が朝鮮くれよと戦争す

・[朝鮮] 日韓協約
1904〜07 大陸に行く大潮な日韓協約

・科挙の廃止
1905 科挙廃止ひどく怒るわ受験生

・日露協商・英露協商
1907 日と露の人食う同じ釜の飯

―宣統帝―

・宣統帝(12代)在位
1908〜12 革命ひどく終わりをいつに宣統帝

・[朝鮮] 伊藤博文暗殺
1909 安重根行くお灸すえにと統監府

・[朝鮮] 韓国併合
1910 日本の人悔い多い韓国併合

・辛亥革命
1911 辛亥に行く人々革命へ

・中華民国成立
1912 南京に行く人に良い中華民国

・袁世凱大総統
1913〜15 独裁で行くイ―最高袁世凱

・二十一カ条の要求
1915 中国の人食い殺す二十一カ条

・石井=ランシング協定
1917 ランシング石井と妥協で行くイ―ナ

・胡適『白話文学』提唱
1917 文学口語で行くイーナ

・パリ講和会議 / 五・四運動
1919 行く行く三一五四ヴェルサイユ

・中国共産党
1921 イー国ひとつと共産党

・第一次国共合作
1924〜27 一つの国よつながろう

・国民政府が樹立
1925 イー国こーと国民政府

・北伐
1926〜28 イー国無二やと北伐開始

・宣統帝溥儀、紫禁城を退去
1924 清皇帝、他人(ひと)よと追い出さる

・張作霖爆殺事件
1928 支援する人急に爆破する(6.4)

・東陵事件
1928 皇帝の墓まで暴くたイ―国や(7月)

・満州事変
1931 いくさはじめの満州事変(9.18)

・中華ソヴィエト共和国臨時政府(瑞金)
1931 農村の人組み一つのソヴィエト政府

・紅軍の長征
1934〜36 奥地でも戦よ見ろと長征実行

・冀東防共自治政府
1935 河北の地ひどく割こうと自治政府(11.4)

・日中戦争
1937 いくさ長びく日中戦争

・日米開戦(真珠湾攻撃)
1941 行く良い地図に真珠湾

・日本敗戦
1945 死んだ供養こらせよ終戦記念

・中華人民共和国成立宣言
1949 蒋介石行く欲捨てて台湾へ

・中ソ友好同盟相互援助条約
1950〜80 中ソ仲良く行くこれは○

・周恩来首相
1949〜76 共産主義で行く良くなろ―と周恩来

・劉少奇国家主席
1959〜68 劉少奇主席でひどくご苦労―や

・ソ連が中国への経済援助停止
1960 苦労を知らんで言うなと援助を停止

・文化大革命
1966 権力欲の人組むロクでもない革命
*『ない(71年)』→林彪が失脚

・周恩来、毛沢東死去
→「四人組」逮捕
1976 これ以上酷くなろ―か江青逮捕

・『四つの現代化』を推進
1981 鄧小平行くわい四つの現代化

・天安門事件
1989 中国の人苦厄の年の天安門

*中華王朝の最終的帰結とも言うべき清王朝の崩壊を扱う語呂合わせです。

・嘉慶帝(7代)
1796〜1820 嘉慶帝、批難・苦労言わず負
乾隆帝から譲位を受けましたが、乾隆帝は権力を手放そうとしなかったので、初期に実権はありませんでした。
*最後の1820年から、次の咸豊帝(9代)の即位1850年までが、道光帝(8代)の在位年です。
→『清朝皇帝【じゅず覚え】

・白蓮教徒の乱
1796 批難組む人白蓮教徒
*康乾盛世(三世の春)と言われる、康熙・雍正・乾隆と続いた、清朝の長い、平和な最盛期の裏では、官僚の腐敗、満州八旗の弱体化、人口の急増による農民の困窮などの様々な社会問題が深刻化していました。→『中国王朝の人口推移

*こうした背景のもと、年老いた乾隆帝に気に入られ、軍機大臣の地位にあったヘシェン(和珅)は権力を一手に握り、農民にも厳しい取り立てをおこないました。こうして白蓮教徒の主導の下、各地に反乱が広がりました。

ヘシェンは兄弟のヘリェン(和琳)を遣わしてこれを鎮圧しようとしましたが失敗し、かえって清の八旗・緑営の弱体化を露呈しました。

・乾隆帝死去
1799 人泣く急逝乾隆帝
乾隆帝が崩御し、嘉慶帝が実権を握りました。国の歳入を長年にわたり着服していた乾隆帝のお気に入り、ヘシェン(和珅)に自殺を命じました。
*最盛期が崩壊の始まりというパターンそのままの乾隆帝ですが、名君の一人とされる皇帝なので一応ここは『人泣く』という語呂にしました。

・阮朝(越南国)成立(→西山朝滅亡)
1802 タイソン人は鬼に魅入られ滅亡す
→『ベトナム王朝年語呂』
*嘉慶帝の当時、清は南方の海賊に悩まされていました。これらはベトナムの西山朝の後ろ盾としていた為、清朝は上手く対応できずにいました。

*1777年に滅亡した広南阮氏の生き残りである阮福瑛はタイに亡命して西山朝に対して抵抗を続け、その内紛を突いてこれを倒しました。これによって清は後ろ盾を失った海賊を掃討し、嘉慶帝は、阮福瑛を越南国王に封じました。

・白蓮教徒の乱が鎮圧
1804 白蓮教の人は惜しくも鎮圧される
*結局、清朝は臨時募集された郷勇(義勇兵)や、郷鎮を守る為に組織された武装集団である団練などの力を借りてようやく乱を鎮圧しました。
*この反乱の鎮圧で、清朝の国庫は底をつき、増税を行う様になり、民衆は不満を募らせ、社会不安が広がっていきました。

・アマーストが全権大使として清を訪れる
1816 英使節一杯向かわすアマースト
*ジョージ=マカートニーから英中貿易の全権を引き継ぎ、朝貢貿易の改善を求めて清に入りましたが、清の皇帝に対する礼法である三跪九叩頭の礼(ひざまずいて3回地面に額を打ちつけ、立ち上がることを3回繰り返す)を拒否したため、嘉慶帝への拝謁は叶わず、交渉失敗に終わりました。

ー道光帝ー
・大院君生没年
1820〜98 外国に一発お灸や大院君

・林則徐が広州でアヘン没収
1839 口実にいーわサンキュー林則徐
*イギリスは清への片貿易を打開するため、インド産のアヘンの密貿易で赤字解消をはかりました。これは、清では、アヘン中毒者の増加と、銀の海外流出による銀価の高騰という大問題となりました。
*清朝は、欽差大臣 林則徐広州に派遣し、イギリス商人のアヘンを没収・廃棄処分にし、輸入禁止の誓約を行わせるなどの強硬措置を行いました。
*イギリスは、これを中国貿易の閉鎖性を破るチャンスと考え、本国から艦隊を派遣することを決定します。

・アヘン戦争
1840〜42 人は知れ世に言うこれがアヘン戦争
*有名なアヘン戦争の語呂です。
*これが、世に言うところの『アヘン戦争』やぞ!というだけの内容のない語呂です。

*清はイギリス海軍の先進的な兵器の前に連敗し、イギリス軍が北上すると、清政府では和平派が多数を占め、徹底抗戦を放棄しました。

*反して、一部の民衆の間には広州の『平英団事件(1841)』のように、イギリス軍に数万の武装した民衆が包囲攻撃を加えるといった事件も起きました。

*アヘン戦争の語呂から以下の年を覚えます。
条約と国の対応など概略は→『アヘン戦争』

1842 南京条約(対英)
1843 五港通商章程・虎門寨追加条約
1844 望厦条約(対米)・黄埔条約(対仏)
1845 イギリス上海に租界

・南京条約(1842)
① イギリスに香港島を割譲
広東・厦門・福州・寧波・上海の5港を開く
(カントン・アモイ・フクシュウ・ニンポー・シャンハイ)
公行制度廃止
④ 2100万ドルの賠償金の支払い

・五港通商章程・虎門寨追加条約(1843)
① 領事裁判権の設定
② 関税自主権の喪失

・望厦条約(対米)・黄埔条約(対仏)
*アメリカ・フランスとも貿易について同様の条件が適用されるとする条約です

・咸豊帝(9代)即位
1850 いーわコレ優しい子やと咸豊帝
道光帝の四男で、愛新覚羅奕詝(えきちょ)と言います。恭親王奕訢(えききん)は六男の弟で後に『同治中興』に尽力しました。
*弟と実力では大差はなかったものの『優しい子や』ということで『いーわコレ』と皇帝に立てられたということです。
*没年は、同治帝の即位年でわかります。

・洪秀全の太平天国
1851〜1864 反清の人は来い来い太平天国
→ 『太平天国フレーズ』

・曾国藩の湘軍が江西遠征
1853 命令はこーさ無視して湘軍遠征
郷紳曾国藩は、湖南省各地の団練(各地の有力者がつくった自衛組織)をまとめて郷勇『湘軍』を編成しました。
*曾国藩は、清の正規軍の相次ぐ敗戦を見て、郷土の防衛に徹しろという清政府の命令を無視して、太平天国軍の進攻する江西省へ遠征し、これを迎え撃ちました。
*語呂は、命令なんて『こーさ』と無視して江西に遠征したということです。
曾国藩は結果的に清政府に評価され、湘軍は以降、太平天国軍を破る上で、清の重要な戦力となりました。
(参考)
1853 日本の人はゴミよとペリー来航
1854 結局はいやいやこーよ和親条約

・アロー戦争
1856〜60 英仏の人は頃みてアロー戦争
*英船籍を主張するアロー号乗組員が逮捕されたこと(アロー号事件)を口実として、イギリスがフランスを誘って共同出兵しました。清は太平天国の乱と並行して英仏にも対応を迫られました。
*英仏軍は天津を占領し、58年に天津条約、更に北京占領により、60年に北京条約が結ばれることになります。語呂は別にあります。下を見てください。
→『アヘン戦争・アロー戦争』

・アイグン条約
1858 新しい範囲はこーやアイグン条約(5月)
東シベリア総督ムラヴィヨフのもと、清への圧力が強化され、ロシアが黒竜江以北を領有することになりました。

・天津条約
1858 外国の人は怖いと天津条約(6月)
*アロー戦争の講和条約です。
[対英仏露米]
① 英仏に賠償金
② 外交官の北京在住
③ 10港開港
④ 外国人の内地での旅行の自由
⑤ キリスト教布教の自由
⑥ 外国艦船の長江通行の権利を保障
*翌1859年、批准書を交換するために北京にやってきた使節の入京を清軍が阻止します。英仏は再度出兵し、首都北京を占領しました。
この際の破壊・略奪で円明園が廃墟と化しました。
(参考)・日米修好通商条約
1858 外国の人は怖いと通商条約

・北京条約
1860 沿海州いーやろおくれと北京条約
*語呂は対ロシアのものとして覚えます。
10月 (対英仏)
*天津条約の内容に、
① 外国公使北京在住
② 天津の開港
③ イギリスへの九竜半島割譲
が追加されました。
11月 (対露)
*ロシアが、アロー戦争の仲介をした見返りに清から沿海州を獲得しました。

・東学党の創始(朝鮮)
1860頃 崔済愚一派群れなし東学党
*『東学』はキリスト教(西学)に対する名称で、朝鮮の民間信仰に、儒仏の教えを摂り入れたものでした。

・総理各国事務衙門設置
1861 外交にいーやろいっちょ事務衙門
*道光帝の六男にあたる、恭親王愛新覚羅奕訢(えききん)によって作られた清の外交を一元的に扱う『外務省』に当たる機関です。

・同治帝(10代)
1861〜75 西太后『同治帝いーやろいーなこの君で』
咸豊帝の死後(1861)まもなく、西太后恭親王奕訢(えききん)らは、当時、咸豊帝の側近として権力が強かった、愛新覚羅粛順(しゅくじゅん)を捕らえさせ、市中で斬首の刑に処しました。このクーデタを『辛酉政変(1861)』と言います。

*辛酉政変の後、西太后らは、同治帝を皇帝に立て、実権は西太后らが握りました。奕訢は摂政となり、後に、曾国藩李鴻章など、漢人官僚を積極的に採用して洋務運動を支えていきます。これは『同治中興』と呼ばれました。

光緒帝(11代)の在位年は、同治帝の崩御年と宣統帝(12代)の即位年から引き出しましょう。

・李鴻章が淮軍組織
1862 いばろー強いぞ李鴻章淮軍
曾国藩の弟子の李鴻章が、安徽省に創設した団練をもとにしています。太平天国との戦いが行われましたが、当初は思う様な戦果は上がりませんでした。
*その後、曾国藩湘軍の下で経験を積んだ李鴻章は、曾国藩の命により上海救援のため、旧淮軍の部将を新たに組織し、イギリス汽船を雇って上海に入ります。
*上海では、西洋の武器を購入し、イギリス式の訓練を施した結果、数千人余りの兵で約10万人の大軍を破り名声を高めます。
*その後、淮軍は数万の軍隊に膨れ上がり、清軍の中で最も装備が整った軍となります。常勝軍とも連携しながら、湘軍と共に太平天国を滅亡させました。

・太平天国が滅亡(天京陥落)
1864 太平天国いーわ無用と滅亡す
*天京攻防戦が行われ太平天国が滅亡しました。
*湘軍の曾国藩とともに、曾国藩の推薦により、太平天国鎮圧で活躍した、淮軍の李鴻章、楚軍の左宗棠は、西太后らの信任を受け、洋務運動を推し進める中心的な漢人官僚と成って行きます。
*1872年に曾国藩は亡くなりました。

・シャーマン号事件(朝鮮)
1866 米帆船はろくろく交渉できず沈没(7月)
*李氏朝鮮との通商を求めて平壌に来航したアメリカの帆船ジェネラル=シャーマン号が、朝鮮側の奇襲によって沈没、乗組員が虐殺された事件です。
大院君が孤立政策をとっていた当時の朝鮮側に立った語呂です。
*アメリカ側は謝罪と通商を求めてアジア艦隊を派遣することになります。

・丙寅洋擾(へいいんじょうらん)
シャーマン号事件と同年の10月、大院君の命令によるフランス人宣教師処刑に対しフランスが軍隊を派遣し、江華島から漢江を攻撃した丙寅洋擾が起こりました。
*フランス軍は予想外の抵抗にあい漢江包囲に失敗し、得るものなく撤退しました。
(参考)
1866 薩長がいっちょやろーと結んだ同盟
1868 京の人やろーや政治と御誓文

・辛未洋擾(しんみようじょう)(朝鮮)
1871 やられても負けたと言わない辛未洋擾
*派遣されたアメリカ軍は、江華島での砲撃戦の末に、海兵隊を上陸させることに成功し、朝鮮側に数百名の戦死者を出す損害を与え、軍旗や武器を戦利品として引き上げました。
*然し、大院君の徹底した孤立・排外政策の前に通商についての交渉は行うことができませんでした。
丙寅・辛未洋擾で結果的に外国の介入を阻止したことは、国内で、大院君の攘夷政策に正当性を与えることになりました。

・日本が台湾出兵
1874 清朝にいー話ない台湾出兵
*台湾に漂流した琉球島民54人が、先住民に殺害された事件で、明治政府の賠償請求に対して、清政府がこれを拒否し、その後の交渉でも台湾は『化外の民』であり管轄外としたため、明治政府は事件の捜査を目的として台湾に軍隊を派遣しました。
*当初、日本の出兵に対して、清の李鴻章らは強く反発しました。
その後、北京で総理衙門大臣恭親王らと、大久保利通らの間で交渉が行われ、結果的に、清は、日本の行動を国民保護のための行動として認め、賠償金を支払うなど、解決策を示すことで決着しました。
*この際、清が間接的に琉球島民を『日本の国民』として認めたことで、琉球が日本に帰属することが決定することになりました。

ー光緒帝ー

・江華島事件(9.20)
1875 始まりは嫌な江華島事件
*明治維新の1868年より、日本は朝鮮に対して新政府樹立の通知と国交の樹立を求めて、何度も国書を送っていましたが、開国した日本への不信感を持つ朝鮮側は、国書が、中華王朝のみに許される『』や『』の字を用いているなどの理由 (書契問題)で、受け取りを拒否していました。そのような状況の中、朝鮮の江華島付近で測量を行っていた日本の軍艦『雲揚』に対して朝鮮側砲台による砲撃がおこなわれ開戦しました。

・日朝修好条規
1876 朝鮮は嫌んなろうや修好条規

・琉球領有→琉球藩を廃して沖縄県へ
1879 琉球の人は無くなり沖縄へ

・イリ条約
1881 ロシアは嫌やイリ条約
*太平天国の末年頃から、清朝の支配に対する新疆のイスラーム教徒の反乱が相次いでいました。
*この様な背景にあって、1871年にロシアがイリ地方を占領します。これに対し1877年に清は左宗棠を派遣してカシュガルを征服、翌年には東トルキスタンを取り戻します。

*1879年から9ヶ月行われたロシアと清の間の交渉の結果は、清朝の意向に沿うものではなかったので、清朝は、再び曾国藩イリ攻撃に向かわせ、ロシアとの緊張が高まりました。が、結局、曾国藩は北京に呼び戻され、ロシアとの和平交渉の結果、結ばれたのがこの条約です。

*清はイリ西部など、周辺地域の一部をロシアに割譲し、賠償金と引き換えにイリを返還されました。これを機会に、清朝によって新疆省が設置され、中央の直轄下に組み込まれることになり、新疆ウイグルを植民地とする、後の国境につながることになります。

・壬午軍乱
1882 閔氏らの一派やっつけ壬午軍乱(7.23)

・清仏戦争
1884 ベトナムを狙っちゃ嫌や清仏戦争

・甲申政変
1884 急進の一派は鎮め甲申政変

・天津条約
1885 争いは嫌やこうしょと天津条約
4月(対日)両国軍の撤兵と出兵時の事前通告
6月(対仏)ベトナムへのフランスの保護権を承認

・金玉均が暗殺される
1894 急進の一派苦しい金の暗殺(3.28)

・日清戦争
1894 日清の人は苦しい日清戦争(7.25)
*同年春、東学教団の全琫準を指導者とする甲午農民戦争

・孫文が興中会を創設
1894 ハワイは急用興中会(11.24)
*海外の華僑を中心として組織された革命を目指す秘密結社です。

・下関条約(→露仏独三国干渉)
1895 三国の人焼くこんな条約は
*遼東半島の旅順は、山東半島の威海などと共に、清の北洋艦隊の根拠地でしたが、日清戦争の際に日本軍に占領されました。

・ロシアが東清鉄道敷設権(露清密約)
1896 枕木ロシアの人は組む
*前年の三国干渉で、日本に遼東半島を返還させた上、対日賠償金の借款供与(借金貸し出し)まで申し出たロシアは、清に対してその見返りを求めました。
*露清密約は、日本が、露清いずれかに侵攻した場合、協同してこれに対処する為の条約でしたが、ロシアはこの条約で、満州でのロシアの権益の拡大を清に認めさせることに成功しました。
*ロシアはシベリア鉄道と接続する東清鉄道を、清の領内に敷設する権利を得ました。

・大韓帝国
1897 逼迫名乗るわ大韓帝国
*下関条約を受けて『独立自主の国』とされた朝鮮は、清の藩属国でなくなったことを受け、儒者の建言に基づいて国号を『朝鮮』から『大韓』とし朝鮮国王高宗が皇帝に即位しました。

・ドイツの膠州湾租借
1898 租借地だらけで清もいよいよ逼迫や(3.6)
*前年11月に、山東省西部で起きたドイツ人宣教師二人の殺害事件を口実に、ドイツ海兵隊が膠州湾を占領します。
*清独間で、交渉が続けられ和解、独清条約(3.6)が結ばれ、以降99年間、ドイツが膠州湾を租借することになりました。ドイツはこの際、山東省内の鉄道敷設権、鉱山採掘権も得ました。

*同年の1月、イギリスは、清への借款供与の見返りとして、長江流域の鉄道敷設権を得ています。

*ロシアも3月に清に対して遼東半島の大連・旅順の25年間の租借権と、東清鉄道と大連を結ぶ鉄道の敷設権を得ました。
ロシアは、大連・旅順に大規模な軍港と要塞を築いてここをロシアの極東政策の拠点としました。

*更にこれを受け、5月、ロシアが東アジアで、陸海軍共に優位に立つことを警戒したイギリスは、清に威衛海、九龍半島北部(新界)の租借を認めさせました。

*翌1899年、すでにベトナムを勢力圏としていたフランスは広州湾を租借しました。

・戊戌の変法
1898 康有役はもちろん変法自強(6.11〜9.21)
*公羊学派の康有為が、光緒帝を説得し、国会開設や憲法制定による、立憲君主制に向けた政治の変革を断行しました。これを『戊戌変法』と言います。
*然し、その年のうちに、反対する保守派が西太后と結びクーデタを起こし光緒帝は幽閉、康有為や梁啓超は日本に亡命しました。→『戊戌の政変』

・ジョン=ヘイ門戸開放提唱
1899 ジョン=ヘイはギューギュー開けと門の戸を押す
*1898年に米西戦争の結果、東アジア進出の拠点となるフィリピン・グアムを手に入れたアメリカは、出遅れ感のある中で、中国大陸の市場への進出を本格化します。

*すでに中国の分割が進む中、国務長官ジョン=ヘイは、英露独仏伊日などの主要な国々に対して、中国の主権尊重と、中国内の港湾の自由な使用を認めるべきであるとする門戸開放通牒を発しました。

*経済活動上の権利は、どの国も平等であるべきとする『機会均等』のロジックで、出遅れた中国市場へ入り込もうとした訳です。

・義和団事件
1900 清朝を助けに行く俺義和団事件

・北京議定書
1901 北京議定書敗れた清の人暗れい

・日露戦争
1904 日と露が朝鮮くれよと戦争す

・日韓協約
1904〜07 大陸に行く大潮な日韓協約

・科挙の廃止
1905 科挙廃止ひどく怒るわ受験生

・日露協商・英露協商
1907 日と露の人食う同じ釜の飯
*日本は日露戦争後も、日英同盟を更新しながら、一方でロシアと結ぶことで大陸進出の理解を得ました。

・宣統帝(12代)在位
1908〜12 革命ひどく終わりをいつに宣統帝

・伊藤博文暗殺
1909 安重根行くお灸すえにと統監府

・韓国併合
1910 日本の人悔い多い韓国併合

・辛亥革命
1911 辛亥に行く人々革命へ

・中華民国成立
1912 南京に行く人に良い中華民国
*フィリピンにつぎ、アジアで二番目にできた共和制国家でした。

・袁世凱大総統
1913〜15 独裁で行くイー最高袁世凱

・二十一カ条の要求
1915 中国の人食い殺す二十一カ条

・石井=ランシング協定
1917 ランシング石井と妥協で行くイーナ
*日米間で結ばれた協定で、中国における門戸開放は尊重されるが、アメリカは中国における日本の特殊権益を認めるという内容でした。

・胡適『白話文学』提唱
1917 文学口語で行くイーナ

・パリ講和会議 / 五・四運動
1919 行く行く三一五四ヴェルサイユ

・中国共産党
1921 イー国ひとつと共産党

・第一次国共合作
1924〜27 つの国よつながろう

・国民政府が樹立
1925 イー国こーやと国民政府

・北伐
1926〜28 イー国無二やと北伐開始

・宣統帝溥儀、紫禁城を退去
1924 清皇帝、他人(ひと)国よと追い出さる
*前皇帝の溥儀が、紫禁城を退去させられました。

・張作霖爆殺事件
1928 支援する人急に爆破する(6.4)

・東陵事件
1928 皇帝の墓まで暴くたイー国や
*国民党の軍閥、孫殿英によって清の歴代皇帝の陵墓(清東陵)の、乾隆帝・西太后の陵墓が暴かれ、略奪が行われました。
*溥儀は、これに強い衝撃を受け、日本に接近したと言われます。満州人側に立った語呂です。

・満州事変
1931 いくさはじめの満州事変
→翌年、満州国の建国

・中華ソヴィエト共和国臨時政府(瑞金)
1931 農村の人組み一つのソヴィエト政府

・紅軍の長征
1934〜36 奥地でも戦よ見ろと長征実行

・冀東防共自治政府
1935 河北の地ひどく割こうと自治政府(11.4)

・日中戦争
1937 いくさ長びく日中戦争

・日米開戦(真珠湾攻撃)
1941 行く良い地図に真珠湾

・日本敗戦
1945 死んだ供養こらせよ終戦記念

・中華人民共和国成立宣言
1949 蒋介石行く欲捨てて台湾へ

・中ソ友好同盟相互援助条約
1950〜80 中ソ仲良く行くこれは○

・周恩来首相
1949〜76 共産主義で行く良くなろーと周恩来

・劉少奇国家主席
1959〜68 劉少奇主席でひどくご苦労ーや
*毛沢東に代わり、国家主席となりました。

・ソ連が中国への経済援助停止
1960 苦労を知らんで言うなと援助を停止

・毛沢東、プロレタリアート文化大革命
1966 権力欲の人組むロクでもない革命
*『ない』で、毛沢東の後継者とみられた林彪が失脚した71年も覚えられます。

・周恩来、毛沢東死去→「四人組」逮捕
1976 これ以上酷くなろーか江青逮捕
*1月に周恩来、9月に毛沢東が死去し、華国鋒首相は毛沢東夫人の江青ら、文化大革命推進派を逮捕しました。

・『四つの現代化』を推進
1981 鄧小平行くわい四つの現代化
*鄧小平を中心とした新指導部は、改革・開放路線に転じて、人民公社を解体、外国資本・技術の導入などを行いました。

・天安門事件
1989 中国の人苦厄の年の天安門

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