清朝年語呂【年号ゴロ合わせ】

*これは年語呂年註-世界史版のひとつです。このページでは、清の歴史の前半をゴロ合わせにそって見ていきたいと思います。後半はこちらです

*音声で耳から覚えるためYouTubeに教材を上げています。こちらです。文字だけではリズムをつかみにくいフレーズもスムーズに覚えられます。ぜひ一度聞いてみることをお勧めします。

*清の歴代皇帝名を手っ取り早く覚えてしまいたい方はこちらを参考にしてみてください。


大清国年語呂

・マテオ=リッチ
1582 マテオ=リッチの一行は着く広州に
(参考)1610 中国に死ぬまでいろとかちょ―マテオ

・ヌルハチ挙兵
1583 女真の置かれた位壊さんとヌルハチ挙兵

・建州女真を統一(マンジュ国)
1589 建州を以後は吸収マンジュ国

・興京(こうけい)に移る
1603 色々治める興京で

・後金建国
1616 後金建国広い昔の金目指す

・遼東を侵攻(明に反抗)
1618 遼東に広いわここと侵攻す

・サルフの戦い
1619 ヌルハチが一路いくさで明下す

・アダム=シャ―ル
1622〜66 (大砲鋳造)い―炉包む炉アダム=シャ―ル

・盛京(瀋陽)に移る
1625 色々都合で盛京に

・ホンタイジ(太宗): 2代
1626〜43 皇帝に色白よさげなホンタイジ

・チャハル部を滅ぼす
1632 広さに魅かれてチャハルいただき

・ホンタイジ国号を清とする
1636 広さ無比なる大清国

・朝鮮を服属させる
1637 朝鮮も北のヒ―ロ―見なと服属

・明滅亡(李自成の乱)
1644 辛い人無視した結果明滅亡

・辮髪令
1645 髪型披露よこ―やれ辮髪

・フェルビ―スト(南懐仁)
1659〜88 技術推し色濃くバンバンフェルビ―スト

・康熙帝(4代)
1661〜1722 ヒ―ロ―無比イ―ナ続けて康熙帝

・鄭成功、台湾占領
1661 鄭成功は明復興を広む人

・文字の獄
1663 広むえぎる文字の獄

・教皇庁が典礼行為の禁止
1645 教皇庁 典礼無用れ禁止

・三藩の乱
1673 色んな三人藩王起こした三藩の乱(〜81)

・ガルダン=ハン、カシュガル侵攻
1680 ガルダンタリムの広場を越えてカシュガル落とす

・ガルダン=ハン、ハルハに侵攻
1688 挑むハの侵攻ガルダン

・ブ―ヴェが清に到着
1688 ブ―ヴェ色々ぱっぱと教える西洋科学

・ネルチンスク条約
1689 広場くれよとネルチンスク

・康熙帝がキリスト教布教を公許
1692 (学術関心)広く布教を公許帝

・ガルダン=ハンの死
1697 ジュンガルのヒ―ロ―苦難の末に死ぬ。

・教皇クレメンス11世が典礼否定
1704 典礼したらイ―ナお仕置きクレメンス

・地丁銀制
1713 イ―ナいざこれより先は地丁銀

・教皇憲章で典礼禁止
1715 イ―ナ以後 典礼すんなとロ―マ教皇

・カスティリオ―ネ(郎世寧)
1715〜66 カスティリオ―ネい―ない―頃向かう頃

・雍正帝(5代)
1722〜35 人生を人何に割こう雍正帝

・キリスト教布教禁止
1723 よく知ればそりゃ否ぶさキリスト教

・青海部(瓦剌(ワラ)部)の設置
1724 イ―名にしてよ青海部

・有力牙行6家を保商とする
1726 言―なに六家の保商で独占貿易

・キャフタ条約
1727 い―な綱はりキャフタ条約

・軍機処の設置
1732 人波に軍機処使って一斉司令

・乾隆帝(6代)
1735〜96 い―波ご苦労乾隆帝

・乾隆帝の攻略によりジュンガル攻略
1755 イ―ナここ清の一部とジュンガル攻略

・貿易制限
1757 貿易はイ―ナこん中広州港

・公行制度の完成
1760 自由貿易否むおきての公行制度

・マカ―トニ―
1793 交渉失敗泣くさ使節のマカ―トニ―

・マテオ=リッチ
1582 マテオ=リッチの一行は着く広州に
*1583〜1610まで、明から清の王宮に仕え『幾何原本』の翻訳、世界地図『坤輿万国全図』の製作を行いました。
(参考)中国に死ぬまでいろとかちょーマテオ

・ヌルハチ挙兵
1583 女真の置かれた地位壊さんとヌルハチ挙兵
*当時、ヌルハチは、女真の鎮撫を担当する明の武官、李成梁の部下でした。
李成梁が、部族内で勢力を伸ばしたいと望む同族の讒言に従って祖父と父を殺したことで、ヌルハチは、その仇討ちの為に挙兵しました。
*激しい同族争いの中でヌルハチは、親族を屈服させ、更に争闘の規模は拡大しました。
*語呂合わせは、後の清の成立を前提に作ったものですが、実際には当初、ヌルハチには、明に反抗する意思はなかったと思われます。

・建州女真を統一(マンジュ国)
1589 建州を以後は吸収マンジュ国
*当時の女真は、建州女真海西女真野人女真などに分かれており、明はこれらを分割して臣属させることで、支配に利用していました。ヌルハチは建州女真に属していました。
*ヌルハチの勢力の増大に対して、李成梁は一つの大きな勢力によって、間接的に女真を支配する方針のもと、ヌルハチを認め、援助しました。
*明の支持の下で、ヌルハチは、かつて『』を建国した完顔(ワンヤン)部などを含む、建州の5大部族を統一しました。建州女真を『マンジュ』という為、これを『マンジュ国』と呼びます。
*明の承認を利用して、ヌルハチは明との取引きによって軍備を増強し、以前より、建州女真との間に利害対立の絶えなかった海西女真との戦いにも勝利をおさめます。
 

・興京(こうけい)に移る
1603 色々治める興京で
海西女真の多くを吸収したヌルハチは、興京に居城を移しました。
1606年には、内モンゴルのハルハ5部にも正式にマンジュ国王として承認されます。

・後金建国
1616 後金建国広い昔の金目指す

・遼東を侵攻(明に反抗)
1618 遼東に広いわここと侵攻す

・サルフの戦い
1619 ヌルハチが一路いくさで明下す

・アダム=シャール
1622〜66 (大砲鋳造)いー炉包む炉アダム=シャール
*フランス人イエズス会宣教師です。
徐光啓の招きにより、1623年に北京に入ります。明の崇禎帝時代、徐光啓の勧めで行われていた暦の改定に、西洋の天文書の翻訳で協力し、これは徐光啓らにより『崇禎暦書』として編さんされました。
*その他、望遠鏡や大砲の製造も行いました。語呂は大砲鋳造についてのものです。
*新しい暦ができてまもなく1644年に李自成の乱で崇禎帝が自殺して明が滅亡します。
*アダム=シャールは、清にも重く用いられ、崇禎暦は『時憲暦』として公布されました。
*アダム=シャールは清の天文台の長官も務めました。
1664年(忌む無用)から一年間、反カトリック勢力によって投獄され、出獄後の翌年に北京で死にました。

・盛京(瀋陽)に移る
1625 色々都合で盛京に

・ホンタイジ(太宗): 2代
1626〜43 皇帝に色白よさげなホンタイジ
*ヌルハチの死後に即位しました。『ホンタイジ』の語源は『皇太子』なので、皇帝に良さげ、という語呂です。別に色白でもないし、ホンタイジも名前であって、別に皇太子ではなかったのですが単なる『覚え方』です。
*ホンタイジの没年1643年から、康熙帝の即位年1661年までを『順治帝(3代)在位』と覚えます。

・チャハル部を滅ぼす
1632 広さに魅かれてチャハルいただき

・ホンタイジ国号を清とする
1636 広さ無比なる大清国

・朝鮮を服属させる
1637 朝鮮も北のヒーロー見なと服属

・明滅亡(李自成の乱)
1644 辛い人無視した結果明滅亡

・辮髪令
1645 髪型披露よこーやれ辮髪

・フェルビースト(南懐仁)
1659〜88 技術推し色濃くバンバンフェルビースト
*『増えるビースト』で、西洋の技術がバンバン増えていく感じです。
*康熙帝に仕えた、ドイツ出身のイエズス会宣教師です。
アダム=シャールのもとで、天文台の副長官を務め、一緒に投獄されました。その死後は長官となりアダム=シャールの仕事を引き継ぎました。
*1673年の三藩の乱では大砲の鋳造を行いました。

・康熙帝(4代)
1661〜1722 ヒーロー無比イーナ続けて康熙帝
*『イーナ続けてこう!』→『康熙帝』というつながりです。また『康熙帝』と『こう行きてえ』とかけています。康熙・雍正・乾隆という名君のつながりを踏まえた語呂です。
*康熙帝は、唐の『太宗 李世民』と並んで、中国王朝、歴代最高の名君と呼ばれる為『618 勢力無比や唐の国』ともかけています。

・鄭成功、台湾占領
1661 鄭成功は明復興を広む人

・文字の獄
1663 広むえぎる文字の獄
*文章の内容が、皇帝や満州族の支配を批判しているという理由でこれを弾圧しました。

・教皇庁が典礼行為の禁止
1645 教皇庁 典礼無用れ禁止

・三藩の乱
1673 色んな三人藩王起こした三藩の乱(〜81)
*呉三桂(ご さんけい)の名前ばかり有名ですが、他の二人は、尚可喜(しょう かき)と耿精忠(こう せいちゅう)です。『消化器』と『更生中』です。すぐ覚えられますね。更生中なのに乱を起こしてしまった訳ですね。『御三家→呉三桂』というのも中々です。

・ガルダン=ハン、カシュガル侵攻
1680 ガルダンタリムの広場を越えてカシュガル落とす
*ジュンガルのガルダン=ハンについての説明も、前に書いたものがあるので、そちらを読んでみて下さい。
→『北アジアの国の変遷②』

・ガルダン=ハン、ハルハに侵攻
1688 挑むハの侵攻ガルダン
→『北アジアの国の変遷②』

・ブーヴェが清に到着
1688 ブーヴェ色々ぱっぱと教える西洋科学

・ネルチンスク条約
1689 広場くれよとネルチンスク

・康熙帝がキリスト教布教を公許
1692 (学術関心)広く布教を公許帝

・ガルダン=ハンの死
1697 ジュンガルのヒーロー苦難の末に死ぬ。
*ハルハは旧領を回復され『藩部』となりました。
→『北アジアの国の変遷②』

・教皇クレメンス11世が典礼否定
1704 典礼したらイーナお仕置きクレメンス
*教皇クレメンス11世は、典礼問題について、イエズス会の立場を否定しました。
*これに対して、康熙帝は典礼を認めるイエズス会宣教師以外の布教を禁止しました。

・地丁銀制
1713 イーナいざこれより先は地丁銀

・教皇憲章で典礼禁止
1715 イーナ以後 典礼すんなとローマ教皇

・カスティリオーネ(郎世寧)
1715〜66 カスティリオーネいーないー頃向かう頃
イタリア人のイエズス会宣教師です。
円明園離宮の設計に加わったことで有名です。

・雍正帝(5代)
1722〜35 人生を人何に割こう雍正帝

・キリスト教布教禁止
1723 よく知ればそりゃ否ぶさキリスト教

・青海部(瓦剌(ワラ)部)の設置
1724 イー名にしてよ青海部

・有力牙行6家を保商とする
1726 言ーなに六家の保商で独占貿易
*清は、有力牙行6家保商とするとして外国貿易を監督させ、清政府の関税収入を確実にしようとしました。

・キャフタ条約
1727 いーな綱はりキャフタ条約

・軍機処の設置
1732 人波に軍機処使って一斉司令

・乾隆帝(6代)
1735〜96 いー波ご苦労乾隆帝

・乾隆帝の攻略によりジュンガル攻略
1755 イーナここ清の一部とジュンガル攻略

・貿易制限
1757 貿易はイーナこん中広州港

・公行制度の完成
1760 自由貿易否むおきての公行制度

・マカートニー
1793 交渉失敗泣くさ使節のマカートニー

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