上代年語呂【年号ゴロ合わせ】

年語呂年註ー日本史「上代編」です。YouTube音声はこちらです。

*ゴロ合わせのルール(規則)についてはこちらを参考にして下さい。

*読みが難しい漢字もあると思いますが、基本的にはYouTubeの音声で確認してもらうことにしていますのでよろしくお願いします。


・倭奴国王の使者が洛陽に至り、光武帝に金印を授けられる
57 漢に向けこんな国です奴の国は
*漢に向けて「奴の国はこんな国ですよ~」と紹介しに行ったという語呂です。『コンナ(57)』ですね。『後漢書』東夷伝の記録です。金印→(光る)→光武帝→(金に光る)→(太陽)→洛陽みたいな感じで連想するとよいです。
*中国の王朝については必要に応じてこちらで補強してください。

・倭国王帥升が生口160人を安帝に献ずる
107 生口の人を並べて帥升朝貢
*以下同様ですが語呂フレーズに重要語を含めると知識がしっかり固まりやすいです。ちょっと語呂は難しくなりますが、そこは音声を聞いてリズムをつかむとしっかり耳に残ります。
*正確には『帥升等(すいしょうら)』と書かれています。『生口』は奴隷みたいなものです。自分の治める国を「安定」させるために「安帝」に貢ぎ物をした訳です。『ヒトヲナ(107)』です。

・邪馬壹国の女王卑弥呼が魏に遣使『親魏倭王』とされる
239 邪馬壹国まわりに柵はり魏に使い
*弥生時代と言えば『環濠集落』で、まわりが濠と柵で囲まれていたと中学でも習いました。あれです。邪馬台国がまわりに柵をはりめぐらせて『魏』に使いを送ったということです。『ニサク(239)』です。『魏志』倭人伝の記述ですね。倭人伝は当時の様子が目に見えるようで読むと普通に面白いです。

・百済王が倭王に贈った七支刀製作年
369 さー向くぞ倭国と友好七支刀
*百済王が倭国と友好を結ぶので『さあ、倭国の方を向くぞ』ということです。『サームク(369)』です。七支刀は日本書紀にも記述があり、長く石上神宮に保存されていました。

・「好太王碑」辛卯年倭の半島侵攻
391 柵逸して半島出兵 
*「柵」とは「境界」みたいな意味です。『境界』を破って『倭』が朝鮮半島に出兵したという意味です。『サクイ(391)』です。高句麗による倭軍掃討は5世紀の初めまで続いたと記されています。(『好太王碑文』の記述)

・倭が東晋の安帝に貢物を献ずる
413 幾らでも来ればよい東晋へ
*相手は『東晋』ですが、また「安定(安帝)」ですね。覚えやすいです。記録に残る最も古い『南朝への朝貢』です。『ヨイノサ(413)』です。倭王の名前は残っていません。(「晋書」の記述)
*南朝への朝貢は、4世紀末から朝鮮半島南部に干渉を始めた『倭王』が、半島南部での軍事外交上の権限を漢民族王朝から引き出すことをねらいとしていました。

・倭王讚、宋の武帝に朝貢爵号をうける。
・倭王讚、宋の文帝に朝貢
421/425 倭王讚冊封申請しに行こ
*『シニイ(421)・コー(5)』で二回の『倭王讚』の朝貢年を覚える仕組みです。フレーズを覚える段階では『倭王さん』という感じで覚えると単純になります。
*倭の五王の初めです。五王は『讃・珍・斉・興・武』です。『(倭王)さんちの最後部』と覚えましょう。(五王はほぼ全て「宋書」の記述)
*『冊封』は名目上の臣下になって、現在支配している土地などにおける権限を正式に認めてもらうことです。『爵号』を受けたとありますが、どういう官職かは記されていません。『部分的』にしか伝わっていないということで『武・文(帝)』を覚えましょう。

430 倭国王朝貢
*これも誰がしたのか詳細は分かりません。『讃』と『珍』の間の年号で430年はキリがいいので覚えやすいです。

・倭王珍が宋の文帝に朝貢『安東将軍倭国王』
438 読みは外れて倭王珍
*倭王珍はそれまでの宋への朝貢の積み重ねを背景に自ら『使持節・都督倭・百済・新羅・任那・秦韓・慕韓六国諸軍事安東大将軍・倭国王』を名乗り、この官職に正式に任命されることを求めましたが帰って来たのは『安東将軍倭国王』の称号だけでした。要望が通るだろうという『読み』がはずれて「チーン!」となった訳です。『ヨミハ(438)』です。

・倭王済が宋の文帝に朝貢
443 世々貢物倭王済
*倭王は中国に代々変わることなく、みつぎ物を「せい」と言う意味で『宋』の皇帝の立場に立ったゴロです。『ヨヨミ(443)』です。

・宋の文帝が倭王済に『使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事』加号
451 挨拶によー来いサービス六国諸軍事
*倭王済が初めて『使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事』の加号を受けました。倭王の希望した『六国諸軍事』から、すでに『安東将軍』より高い位の『鎮東将軍』を与えていた「百済」が除外されています。
*『出血大サービス』で六国諸軍事認めてやるけえ、これまで同様よう挨拶に来いよ、という語呂です。『ヨーコイ(451)』です。

460 倭国王が宋の孝武帝に朝貢
*これも倭王の名前は記されていません。『430』に続き今度は『460』です。覚えやすいですね。

・倭王興が宋の孝武帝に朝貢『安東将軍倭国王』
462 将軍にしろっつーのと倭王興
*『将軍にしろっつ-の!』と言って倭王興が朝貢してきたという語呂です。結果『安東将軍倭国王』にはなったのですが、『六国諸軍事』は付いてきませんでした。なので『倭王興』の部分は『倭王おこ(怒)』とイメージするといいです。興(コウ)が孝(コウ)武帝に朝貢したわけですね。

・埼玉稲荷山古墳鉄剣銘『獲加多支鹵大王』
471 この剣よーない?稲荷山
*埼玉県の稲荷山古墳から発見された「辛亥年」の鉄剣には『獲加多支鹵(ワカタケル)大王』と記されていて「大長谷若建命(オオハツセワカタケル)=雄略天皇」のことであるとされています。そうすると「辛亥年」は471年になります。大王の治世に仕えた『乎獲居臣(ヲワケノオミ)』という人が作らせた鉄剣です。『ヨーナイ?(471)』と周りに見せびらかしている感じです。
*これ以外にも、作られた年は記されていませんが、熊本県玉名郡の江田船山古墳出土の大刀の銘文にも「獲□□□鹵大王」と記されていることが有名です。ここから当時の倭王権の、北は関東、南は九州の熊本という勢力範囲が推定されています。

・高句麗により百済漢城陥落→熊津遷都
475 漢城陥落復興誓ってよー泣こ
*高句麗の南下によって百済の「漢城(現在のソウル)」が陥落します。これによって百済はの「熊津(クマナリ:現在の忠清南道広州市)」に遷都します。以降、百済は勢力回復のため南への侵略を始め、対象となった半島南部・倭との利害が対立します。
*もちろんこれによって百済は「漢城」の回復を諦めたわけではないので『復興を誓って良く泣いておこう』ということです。『ヨーナコー(475)』です。

477 倭国王が宋の順帝に朝貢
*これも王名は記されていません。有名な478年の上表の前の年なので「前年」と覚えましょう。稲荷山古墳鉄剣の「辛亥年」が471年であった場合、これは『ワカタケル』の「タケル」に漢字を当てた倭王『武』の時代のことであるということになります。

・倭王武が宋に順帝遣使上表
『使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事安東大将軍倭王』
478 倭王武がシナはどうかと使いを送る
*中学の年語呂で作った語呂ですが『シナ(中国)はどうだい?』と使いを送ったという語呂です。『シナハ(478)』です。

*倭王武は初めから『使持節都督倭・百済・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓七国諸軍事安東大将軍倭国王』と自称します。これは478年に使いを遣わして『上表』を行ったという記事より前に書いてあるので、477年の朝貢でのことかもしれません。ともかく前に倭王済が『六国諸軍事』に任じられたことをふまえて、そこにもう一回『百済』を加えて『七国諸軍事』を主張したわけです。これに対し宋は『倭王武』を『使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事安東大将軍倭王』としました。

・倭王武「鎮東大将軍」進号 南斉 高帝
479 倭王武は何しなくても鎮東将軍
*『武』は倭王としては初めて『鎮東将軍』に任じられました。『何しなくても』は特別なことは何もしなくてもという意味です。『シナク479』です。

・獲加多支鹵大王(倭王武)死去
489 獲加多支鹵ようやくに着く死の眠り
*これは1説ですが、はっきりしないからと言って触れないというのは知識があやふやになるもとだと私は思うのです。古事記は雄略天皇の崩御を「己巳年」としていてこれは「489年」に当たります。日本書紀は10年早く479年です。ここでは古事記をとりました。『ヨーヤク489』です。

・倭王武「征東大将軍」進号 梁 武帝
502 死んでからされても困るに征東将軍
*これはちょっと茶化していますが、死んだあとに『征東証軍』に任じられるのはおかしい!崩御年の記録が間違ってるはずだ!という考えももちろんあります。『コマルニ502』です。

・男大迹(ヲホド)王(継体)の即位
507 史実では始まりこれなと継体帝
*説明は天皇即位年語呂に譲ることとします。

・百済の加耶4地域併合
512 コイツ必死か任那併合  倭王承認→五経博士
513 (翌年)百済の加耶2地域併合
*漢城陥落の段で触れたように、南に移った百済は、勢力をさらに南にのばすことで国力を保とうとします。当時の加羅(加耶)4地域は百済に征服され、ヲホド王の即位後まだ国内が安定していない倭王権は、有力者大伴金村の進言もありこれを承認します。これを認める交換条件として百済から『五経博士』という儒教の学者を倭に送る約束が交わされたとされています。百済も自国の存亡がかかっていますから、背に腹は代えられません。当時の「倭王権の利益」は半島南部の小国分立状態を維持することにあったと思われますが、以降、現状維持の政策は壊れていきます。
*百済は翌年更に加羅2地域を併合します。

・新羅の加耶4地域併合
524 加耶潰すこれがコツよと新羅侵略
*当時、着実に力を伸ばしていた新羅が南部の加羅4地域を併合します。4世紀には宋に対し朝鮮半島の軍政権をしきりに求めてきた倭王権ですが、その存在感はすでに全くありません。新羅が『これが加羅潰すコツよ』と言って侵略する感じです。『コツヨ(524)』

・筑紫国造磐井の乱
527 救援は鎮圧後にな磐井の乱
*新羅が併合した南部の加羅を再興するため、近江毛野臣(おうみのけぬのおみ)を将とする水軍が派遣されましたが、途中の北部九州で筑紫国造(つくしのくにのみやつこ)であった磐井(いわい)が反乱をおこし足止めを食います。倭王権は大連(おおむらじ)の物部麁鹿火(あらかい)を送りこれを鎮圧しました。加羅に対して『救援するのはこの反乱鎮圧してからな!』と言う感じです。『ゴニナ(527)』です。

*『磐井』を滅ぼして北部九州に対抗できる勢力がいなくなった後、九州各地に「屯倉(みやけ)」がおかれ、倭王権による「直接統治」の政策が進められました。

・安閑天皇即位
531 込み入った世には適せず安閑帝
*説明は天皇即位年語呂に譲ることとします。

・金官国新羅に併合
532 金官もやられて至る降参に
*半島南部の加羅諸国のうちでも有力だった金官加羅が新羅によって滅ぼされた年です。『コーサンニ(532)』です。

・宣化天皇即位
535 古代には御子あったと宣化帝
*説明は天皇即位年語呂に譲ることとします。

・百済より仏教の公伝(崇仏論争)
538 好みは金色仏像伝来
*仏教公伝には日本書紀の『ここに(552)初めて仏教公伝』と『上宮聖徳法王帝説』や『元興寺縁起』の538年があります。538年説では仏教をもたらしたのは百済の聖明王であったとされています。『コ(ノ)ミハ(538)』です。

・欽明天皇即位
539 半島の工作悩ます欽明帝
*説明は天皇即位年語呂に譲ることとします。

・大伴金村失脚
540 失脚し金村隠居小じんまり
*百済の加羅4地域併合の際に、百済への加羅割譲を支持したことで、百済とのわいろの授受があったことを疑われ、大伴金村が失脚しました。

*百済の聖明王は、倭王権が失った加羅の再建を名目にして、倭王権を利用した新羅侵攻を計画し盛んに工作を行いますが思うようにいかず、聖明王は新羅との同盟を行い、高句麗に対抗しようとします。

・百済漢城回復
551 ここ一つ漢江回復行きますか
*日本に仏像をもたらしたとされる百済の聖王(聖明王)が、新羅との連携のもと、一時、かつての首都である漢城(漢山城)付近を奪回したといわれる年です。

・新羅漢城ふくむ半島中部併合
552 ここに来て容易に止まらぬ新羅の侵攻
*高句麗と百済との交戦は550年以降ずっと続いていましたが、その間にあって新羅は両国の交戦のたびに、その係争地を掠めとる形でじわじわと領土を広げていきました。百済が新羅と同盟してやっと回復した漢城も、553年、結局新羅に奪われてしまいます。こうした新羅の躍進を実現させたのが真興王です。つまり、真興王の侵攻で領土を広げた訳です。

・百済から易博士・暦博士・医博士
553 ここんに学問するよと三博士
*512年の『五経博士』に続き、百済から易博士・暦博士・医博士が送られました。中国型の文化・制度が次第に移入されていく過程が分かります。『ここ(日本)も学問盛んにしちゃうよ!』と言って三博士がやってきたイメージです。『ココ(モ)サ(553)』です。

・加耶諸国消滅
562 加耶諸国この頃にははや消滅す
*新羅の真興王の侵攻によって大伽耶(高霊郡にあった)が滅ぼされ、ここに伽耶諸国は消滅しました。『コロニ(562)』です。

・敏達天皇即位
572 なにも敏い帝と敏達帝
*説明は天皇即位年語呂に譲ることとします。

・隋建国
581 奥さんが怖い楊堅隋建国
*漢族の王朝である晋を南に追いやって鮮卑族の建てた王朝、北魏以来、中国大陸は北の鮮卑系王朝と南の漢族系王朝に分裂していました。北周の将軍であった楊堅は皇帝に禅譲をせまり自ら即位して『隋』を建国します。

・用明天皇即位
585こうやこう使い方はと用明帝
*説明は天皇即位年語呂に譲ることとします。

・蘇我馬子が物部守屋を滅ぼす
587 勝利者は蘇我馬子やな守屋の敗死

・崇峻天皇即位
587 古代からこうやってん崇峻帝
*説明は天皇即位年語呂に譲ることとします。

・隋が中国を統一する
589 楊堅の奥さん怖くて隋統一

・(馬子→崇峻天皇暗殺)推古天皇即位
592 の初の女帝は推古天皇
*説明は天皇即位年語呂に譲ることとします。

・厩戸王の政治
593 国際的な摂政誕生

600 倭が隋に最初の遣使を送る「隋書」

・百済の観勒来朝して暦法伝える
602 観勒お疲れ来朝す

・冠位十二階を定める
603 豪族の群れ身を正せ冠位十二階

・憲法十七条
604 役人の群れ鎮める十七条

・小野妹子らが第一回遣隋使 裴世清らと帰国
607 群れなし海へ遣隋使
608 小野妹子らが第二回遣隋使 高向玄理・僧旻・南淵請安

・遣隋使
614 何度でもかっていーよ遣隋使

・唐建国
618 勢力無比や唐建国
*勢力が他に比べるべきものがないということです。『ムヒヤ(618)』です。

・唐が中国統一
628 勢力無二や唐の国
*建国年とセットで覚えます。勢力が二つとないほど飛びぬけているということです。『ムニヤ(628)』です。

・舒明天皇即位
629 温泉にかって尽くる舒明帝
*説明は天皇即位年語呂に譲ることとします。

・第一回遣唐使
630 かってみれよ唐の国

・高向玄理・南淵請安帰国
640 大陸の文化をむしれ留学生
*大陸(唐)の文化をむしり取って日本に移植せい、という語呂です。608年に隋に留学した高向玄理・南淵請安が帰国した年ですので気を付けて下さい。『ムシレ(640)』です。

・皇極天皇即位
642 かう世に夫亡き後皇極帝
*説明は天皇即位年語呂に譲ることとします。

・蘇我入鹿が山背大兄王を滅ぼす
643 厩戸の後継ぎ無視さ入鹿襲撃

・中大兄皇子・中臣鎌足ら 蘇我蝦夷・入鹿滅ぼす
645 朝廷の虫殺して乙巳の変
*『虫殺し(645)』と言えば大化の改新ですが、高校では『乙巳(いっし)の変』で、中大兄皇子・中臣鎌足らが、蘇我蝦夷・入鹿らを滅ぼした政変、クーデターです。

・孝徳天皇即位
645 虫殺し成って即位の孝徳帝
*説明は天皇即位年語呂に譲ることとします。

・「改新の詔」が出される
646 むしろこっちな大化の改新
*日本書紀では年号が『大化』に改められて『改新の詔』が出されたとされています。

・新潟に渟足柵と磐舟柵(翌年)
647 蝦夷への無用な怖れを消す2つの柵

・左大臣阿部内麻呂病死 右大臣蘇我倉山田石川麻呂謀反→自殺
649 朝廷の虫急激にいなくなる

・巨勢徳陀子(徳多)が新羅征討を進言
651 巨勢の子が「向こってよ」新羅を拒絶

第二回遣唐使

・第三回遣唐使
653/654 向こうさんの方も向こうよ遣唐使
・高向玄理死去
654 再渡唐 向こうんだ高向玄理

・斉明天皇即位(皇極重祚)
655 崩御まで向こう五年は斉明帝
*説明は天皇即位年語呂に譲ることとします。

・百済滅亡
660 このままじゃロクロク終われん百済滅亡

・中大兄皇子「称制」開始
661 集権にかって無比な天智帝
*説明は天皇即位年語呂に譲ることとします。

・白村江の戦い(唐新羅連合軍に大敗)
663 白村江かって無残な敗北す

・壱岐・対馬・筑紫に防人と烽
664 倭の人はながら防衛講ず

・「氏上」を定め領有民の確認
664 豪族のめる氏上

・近江大津宮に遷都→翌年天智即位
667 遷さねばロクロク和めぬ大津に遷都

・高句麗滅亡
668 半島の最古の室はついに滅亡
*高句麗の成立は非常に古く『邪馬台国』の時代にはすでにしっかりと存在していました。もちろん中国は当時『唐』ですから、周辺地域のどの国よりも古い王朝だったわけです。その高句麗が滅亡したという「事件」は当時の倭王権にとっても衝撃的であったようで、日本書紀ではその『予兆(大きな政変には必ず前兆があるとされた)』が様々に記され、蘇我氏の滅亡までの描写と並び、不吉な雰囲気を醸し出す書紀中の名作(書紀は半分物語です)となっています。

*「最古の室(むろ)」の「むろ」は屋敷のことで、王室の意味で使っています。『ムロハ(668)』です。

・庚午年籍(最初の戸籍)成立
670 役人の禄成おおもと庚午年籍

・大海人皇子皇太子を辞し出家→吉野
671 出家して大海人禄ない人となる

・天智天皇崩御
671 門口を建てて世に無な人となる

・壬申の乱
672 甥の子のかむ壬申の乱

・天武天皇即位
673 暗殺の胸騒ぎして天武帝
*説明は天皇即位年語呂に譲ることとします。

・豪族領有をやめ官僚制(位階昇進制)へ
675 私有民ロクなこと無い官僚制

・統一新羅成立
676 朝鮮はロクな虫無く新羅統一
*645年の『乙巳の変』に呼応したゴロです。日本では虫(蘇我氏)を殺して乙巳の変が成った訳ですが、これは新羅の統一に抵抗する大した虫(敵対勢力)がなくて、統一新羅が成立したよと言うことです。大国『唐』を利用しつつ、まんまと朝鮮半島をまるごと掠め取ってしまったのですから大したものです。こうした後先考えない身命を賭したような大バクチを打つことは日本人には真似できません。

・「八色の姓」を定める
684 音で読む八色の色はくさと読む

・天武天皇崩御→皇后(持統帝)
686 理でもやろう持統天皇
*説明は天皇即位年語呂に譲ることとします。

・飛鳥清御原令
689 無益な欲捨て清御原令

・庚寅年籍成立
690 役人が禄食おおもと庚寅年籍

・藤原京遷都
694 天壌の無窮願い藤原京
*文武即位年と似ていますが、藤原京は持統天皇の時代にできた都なので順序から見分けられます。セットで覚えるとよいでしょう。『天壌』は「天地」『無窮』は「窮まりない」と言う意味で『天地のように絶えることがない』となります。

*大和三山を取り込んで、そのど真ん中に大内裏を配した都でしたが、驚くことにこれは大内裏を北に置くことすら、当時分かっていなかったからであると言われます。何度もアップグレードを繰り返す中でじわりじわりと唐文化が採り入れられていったので、日本の律令制の中には古墳時代からの古い伝統も多く残っています。

・文武天皇即位
697 天壌の無窮な世願う文武帝
*説明は天皇即位年語呂に譲ることとします。

・大宝律令
701 成れ一つに大宝律令

・元明天皇即位
707 天皇にったの元明帝
*説明は天皇即位年語呂に譲ることとします。

・和同開珎鋳造開始
708 売り買いも盛んになれや和同開珎
*『盛んに売り買いするようになれ』ということで作ったことは間違いないだろうということでこのゴロです。平城京

・平城京遷都
710 何と見事な平城京

・古事記成立
712 何重に意味を巡らせ古事記完成
*これは決して陰謀論とかそういう意味はありません。古事記は倭王権の宮廷にとりいれられた王権神話や、歴史上の人物にまつわる伝説、縁起説話、歌謡説話などの創作文学を、時系列に沿って一つながりの物語にまとめたものです。だから、個々の説話には多少なりと史実との関連もあれば、民話的な性格も強く、その時代ごとに込められた政治的な意図や、純粋な文学的意図も反映しています。また個々の神話には、古代の呪術的な信仰も読み取ることができれば、また王権の祭祀の観念も反映しています。その多くは、東アジア全域に同類の神話の原型が見られるもので、まさに各時代の様々な人々の意図が地層のように積み重なって成立している書物です。『ナンジュウニ(712)』です。

・風土記編纂命令 →現存「出雲国風土記」
713 成立に期限はないさ波ある
*『風土記編纂』の詔が出たのは『ナイサ(713)』で713年でいいのですが、この最初の詔で作られた風土記を「和銅風土記」と言って、その後もより地誌として実用性のある「風土記」が不定期に作られているらしいことが分かっています。で『期限はないさ(つくられた時期に)波あるさ』という語呂な訳です。現存の『出雲風土記』はその中でも最も新しい年代のもので『ナミ(ある)サ(733年)』となっております。

・元正天皇即位
715 史書も成なー行こ皆で元正帝
*説明は天皇即位年語呂に譲ることとします。

・日本書紀成立
720 何をさしおいても歴史書日本書紀

・藤原不比等の死去
720 何をさしおいても惜しい不比等の他界

・長屋王右大臣
721 何ひとつ遮るものなき右大臣

・百万町歩開墾計画
722 何つー風呂敷百万町歩開墾計画
*『ナンツーフ(ロシキ)(722)』です。当時はまだ非常に低かった農業生産力を飛躍的に向上させることを目的に計画されました。百万町歩ってまた大風呂敷広げやがって、当時の日本の開発力から考えてあり得ないでしょ、といった意味です。

・三世一身の法
723 何三世所有できるの?一身の法

・長屋王左大臣
724 何にしろ遮るものなき左大臣

・聖武天皇即位
724 崇仏の天皇の名に聖武帝
*説明は天皇即位年語呂に譲ることとします。

・長屋王の変
729 に窮する長屋王

・光明子皇后となる
729 何食わぬ顔してエポック光明子

・藤原武智麻呂が右大臣になる
734 我大事成さんよ武智麻呂右大臣

・藤原氏4兄弟天然痘で相次ぐ病死
737 深刻な波なり藤原四子みな病死
*『深刻な波』とは『天然痘の流行』です。

・橘諸兄が右大臣 吉備真備 玄昉
738 波はキテルな橘モロえー
*『橘諸兄』波がキテルっしょモロ運気がエーという…まあそういう語呂です。『ナミハ(738)』となります。

・藤原広嗣の乱
740 皆俺になー広嗣あえなく敗死

・恭仁京に遷都
740 同じ場所なしおれんのか恭仁京
*『恭仁京』は現在の京都府木津川市です。

・国分寺国分尼寺建立の詔
741 国ごとの除災に名良い国分寺

・大仏造立の詔(東大寺盧舎那仏像の建立の詔)
743 建ったなら災いなしさ奈良の大仏

・墾田永年私財法
743 墾せば公地はなしさ私財法

・難波京遷都
744 なんしよん?趣味引っ越しか難波京
*現在の大阪府大阪市です。

・紫香楽宮(甲賀宮)遷都
745 なしコロコロと紫香楽宮
*初めに紫香楽に天皇の離宮が造営されたのは『大仏造立の詔』の前年(742)で『大仏造立の詔』は紫香楽宮で出されました。盧舎那仏は当初、紫香楽の地に造営されるはずだった訳です。
*現在の滋賀県甲賀市です。

・平城京に戻る
745 なしコロコロと平城京

・孝謙天皇の即位
749 問題の割には名良く孝謙帝
*説明は天皇即位年語呂に譲ることとします。

・懐風藻成立
751 文化的な国の名来いと懐風藻

・大仏開眼供養
752 良のごっつい大仏開眼供養式

・養老律令成立
757 良のこんな業績他なし養老律令

・奈良麻呂の乱 橘奈良麻呂 藤原仲麻呂
757 不運に泣こ奈良麻呂の変
*淳仁天皇の即位年のゴロと似ていますが『泣こうな(757)』の『な(7)』は『奈良麻呂』の『な』だと思っていればいいでしょう。

・淳仁天皇即位 藤原仲麻呂(恵美押勝)
758 不運に泣こ淳仁天皇
*説明は天皇即位年語呂に譲ることとします。

・万葉集成立
759 泣こしみ慰むものは万葉集

・藤原仲麻呂太政大臣
760 優秀な大臣に成ろう藤原仲麻呂

・光明皇后崩御
760 他界する南無を唱えて藤三娘

・道鏡が孝謙太上天皇の病気治療
761 孝謙の病気を治す南無

・藤原仲麻呂の乱 恵美押勝の乱
764 結局は世の中南無よ仲麻呂の乱

・称徳天皇即位(孝謙重祚)
764 結局は世の中南無よ称徳帝
*説明は天皇即位年語呂に譲ることとします。

・道鏡が太政大臣禅師となる
765 道鏡は南無果か太政大臣

・宇佐神宮神託事件 和気清麻呂
769 清麻呂の名無窮に残す宇佐の神託

・道鏡下野薬師寺別当として追放
770 め坂 と転がる道鏡追放

・光仁天皇即位
770 中々アな天皇光仁帝
*説明は天皇即位年語呂に譲ることとします。

・宝亀の乱 多賀城焼失
780 蝦夷の乱何貼か伊治呰麻呂

・桓武天皇即位
781 名は一つ頭抜けてる桓武帝
*説明は天皇即位年語呂に譲ることとします。

・紀古佐美征東将軍(阿弖流爲)
789 束結ばせられず古佐美惨敗

・『健児制』を採用
792 仕方なく強い子集めて健児制

・平安京遷都
794 泣くようぐいす平安京

・坂上田村麻呂征夷大将軍
802 破裂した阿弖流爲帰順に胆沢城

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