ケープ植民地年語呂【年号ゴロ合わせ】

*これは年語呂年註-世界史版のひとつです。このページでは南アフリカの歴史の概略をゴロ合わせでおさえていきたいと思います。

*音声で耳から覚えるためYouTubeに教材を上げています。こちらです。文字だけではリズムをつかみにくいフレーズもスムーズに覚えられます。ぜひ一度聞いてみることをお勧めします。


・バルトロメウ・ディアスが喜望峰に到達
1488年 アフリカの果て行く意志はバルトロメウディヤス(あると思うでやす)
*ポルトガル人バルトロメウ・ディアスがヨーロッパ人として初めて喜望峰に到達しました。
*初めに付けられた名前は、周辺の海が荒かったため『嵐の岬』でした。
然し、この『』の発見によってインドとの香辛料貿易の新たな航路がもたらされる可能性があったことからジョアン2世が『希望の岬』としました。
→『ポルトガル王国年語呂
*希望の『岬』を喜望『峰』とした和訳は誤訳とされます。

・ヴァスコ=ダ=ガマがインドのカリカットに到達
1498年 風吹く方位よくば到着カリカット
*ヴァスコ=ダ=ガマがインドのカリカットに到達により『希望』されたインド航路の開拓が実現しました。
*ポルトガルはインド航路の寄港地としてこの地に入植を試みましたが、その維持が困難であったため放棄しています。

・オランダ東インド会社のケープ植民
1652年 オランダの人向こーに渡す喜望峰
*オランダ東インド会社のヤン・ファン・リーベックが後のケープタウンとなる地に進出しました。
*その後、補給地から定住地に発展し、先住民のコイコイ人を圧迫しながら開発を進め、軍事力によってこれを屈服させ、コイコイ人を管理し労働力とするようになります。
*オランダ系入植者(多くは貧しい農民)は定住者となったのち、多くは奴隷制に基づく大農園経営を行うようになり、ブール人(ボーア人)と呼ばれるようになりました。

・イギリス艦隊ケープタウン占領
1795年 邪魔をする人なく強奪ケープタウン
*フランス革命軍がネーデルラント連邦共和国を占領したことを受け、イギリス艦隊がケープタウンに上陸しこれを占領しました。

・オランダ東インド会社消滅
1799年 オランダの人無く窮する東インド会社
*オランダ東インド会社の持っていた権利および領土は、フランス革命軍のつくったオランダの傀儡政府バタヴィア共和国の管理に移され、東インド会社は消滅しました。
*オランダ系入植者は事実上故国を失ったことになります。

・アミアン和約
1802 ひと山ついにアミアン和約
*アミアン和約で英仏が講和し、翌年1803年、ネーデルラント連邦共和国の後継国家、バタヴィア共和国にケープ植民地は返還されました。

・ナポレオン戦争中に再びイギリスが接収
1806年 イギリスの人はまろうや英領ケープ
*イギリスのアミアン和約破棄後、再びイギリスはケープ植民地を占領します。

・ロンドン条約
1814年 化け物の退治祝いよウィーン会議
*ウィーン会議の1814年、英蘭2国間でケープ植民地をイギリスに譲ることが正式に決められました。
*以降、イギリスからの移民が多数入植することになります。

・イギリス奴隷制度廃止法
1833年 イギリスの人はさっさ奴隷を廃止
*イギリス本国でキリスト教人道主義者の運動などもあり、奴隷制度廃止法が可決されます。
*この法律はケープ植民地にも適用され、奴隷は解放されることとなりました。
*奴隷労働力を使った大農園を経営していたブール人たちはこれに反発します。くわえて、イギリス統治下で英語が公用語とされ、英語が不得手な彼らは軽んじられました。
*こうしたことから、1830年~1840年にかけて、ブール人たちはイギリス支配からの『自由』を求めて、ケープ植民地のある南の沿岸部から、さらに北東内陸部へと再入植を行います。
これをグレートトレック(大移住)』言います。

・ナタール共和国(~42)
1839年 いーわサンキューナタール建国

・トランスヴァール共和国
1852年 いーやこっちにトランスヴァール

・オレンジ自由国
1854年 ここまでは人は来んよと自由国

*ブール人の移住先はもちろんアフリカ人の土地で、先住民が農耕・牧畜を営んで生活していました。ナタールの先住民であるズールー王国とは激しい戦闘を行い、その首都を占領。和平の末、1839年ナタール共和国が建国されました。
*ところがナタールの入植者たちは土地の分配などで内輪もめとなり、こうした混乱を見たイギリスはナタール共和国に宣戦しわずか3年で滅ぼされてしまいます。

*イギリス支配を嫌った多くのブール人は、ナタールを脱出し、移住過程でオレンジ川周辺にとどまっていたブール人たちと合流、イギリスケープ植民地と武力闘争を経たのちここにトランスヴァール共和国(1852)、オレンジ自由国(1854)を建国します。

・オレンジ自由国でダイヤ鉱山発見
1867年 ダイヤの地いっちょ割ろうなキンバリー
*オレンジ自由国のキンバリーでダイヤモンド鉱山が発見されました(イギリス人セシル=ローズは後にその大部分を支配下に置きダイヤモンド採掘で莫大な富を得ました)

・第一次ブール戦争
1880年 ブール戦争イーワやれ
*海を求めてズールー王国方面に進出しようとしたトランスヴァール共和国を警戒したイギリスは、1877年、その併合を宣言します。これに対抗して1880年、トランスヴァール共和国はイギリスに宣戦。ブール人の激しい抵抗により、翌1881年、イギリスはマジュバの戦いで大敗しトランスヴァール共和国の独立を再び認めました。

・トランスヴァールで金鉱発見
1884年 トランスヴァールの人早足で金鉱へ
ヨハネスブルグで金鉱が発見され、財政難であったトランスヴァールは外国資本を募りつつアフリカ各地と結ぶ鉄道を敷設し採掘を進め、急速に繁栄していきます。

・ケープ植民地首相セシル=ローズ
 【在任】
1890~96 南アのダイヤと金鉱イーワくれ急務
*イギリス人企業家セシル=ローズは、デ・ビアス鉱業会社を設立してダイヤモンド採掘と金鉱採掘で莫大な富を得ました。この財力を背景に政界にも進出し、本国政府の要人を買収して、東インド会社と同様の特許会社である『イギリス南アフリカ会社』を設立、更に1890年にはケープ植民地首相に就任します。
*1890年~95年にかけてトランスヴァール北方の広大な地に遠征隊を派遣しローデシアと命名します。
*その勢いに乗じてセシル=ローズはトランスヴァール共和国を一気に併合してしまおうと計画します。共和国に武器弾薬を持ち込み、反乱を起こさせ、その援助を名目に南アフリカ会社軍を攻め込ませるというものでしたが、反乱は失敗、南アフリカ会社軍は全員捕虜となりました。
*この強引なやり方がイギリス内外の批判を浴びることとなり、セシル=ローズは失脚しました。
*セシル=ローズが退いた同じ年に本国の植民地相となったジョセフ=チェンバレンは、世論の沈静化を待った後、セシル=ローズの植民地拡大策を継承し、ブール人の国を盛んに挑発、本国向けには、両国内のイギリス人が不当な地位に置かれていることを宣伝し、本格的な戦争である第二次ボーア戦争の準備をすることになります。

・第二次ブール戦争(南アフリカ戦争)
(1899~1902)
1899年 イギリスの人は汲々ブール戦争
1902年 イギリスは人食う鬼やブール征服
*イギリスの独占資本がトランスヴァール共和国・オレンジ自由国の資源を完全に掌握することをねらって起こされた帝国主義戦争です。列強による『アフリカ分割』はこの時までに終了しつつあり、この戦争はその最後の段階にあたります。
*当初、イギリスはその年のうちに、両国を制圧できるものを考えていましたが、ブール人の頑強な抵抗にあい長期戦にもつれこみました。
*結局、イギリスは両国に将来的な自治を約束することで、やっと両国を併合しました。
*アフリカ南部の小国の制圧に長期を要し、莫大な費用と犠牲を払ったことは、イギリスの権威を失墜させました。巨額の財政赤字と莫大な国債は、国家財政を破綻させイギリスの長い低迷期が始まることになります。

・南アフリカ連邦成立
1910年 4州まとめて行くと南アフリカ連邦
*イギリス帝国内の自治領として、ケープ植民地・トランスヴァール・オレンジ・ナタール4州をまとめて南アフリカ連邦としました。イギリス自治領で構成されるイギリス帝国会議の一員となります。ブール人もイギリス自治領国家の一員となることで、白人支配者の一部となりました。

・ウェストミンスター憲章
1931年 行くさ一つのイギリス連邦
*イギリス帝国会議で白人自治領側から出された本国と対等な関係を求める要求を受けて
イギリス元首相バルフォアを座長とする委員会の、バルフォア報告が出され、1931年のウェストミンスター憲章が制定されました。
これにより、南アフリカ連邦は、本国イギリスと対等なイギリス連邦の一員となりました。

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