南インドの王朝年語呂【年号ゴロ合わせ】

これは『テンプレ世界史インドの王朝の変遷 』のおまけページという扱いです。このページでは、南インドの王朝の歴史の概略をゴロ合わせにそって見ていきたいと思います。

*音声で耳から覚えるためYouTubeに教材を上げています。こちらです。文字だけではリズムをつかみにくいフレーズもスムーズに覚えられます。ぜひ一度聞いてみることをお勧めします!


【南インドの王朝年語呂】
*基本ヒンドゥー王朝 ドラヴィダ系

<チョーラ朝>
・インド東南部にあったドラヴィダ語族タミル人の王朝
・適当に漢字を振ると『朝裸朝(ちょうらちょう)』逆から読んでも『朝裸朝』です。すぐ覚えられます。
・右から読んでも左から読んでも『朝裸朝』で3文字。前3世紀〜後3世紀までと覚えましょう。

① 前3世紀〜後3世紀 : 前期チョーラ朝
【成立・滅亡】
サタヴァナと同じ古株チョーラ朝
*一応フレーズも用意しましたが、前期のチョーラ朝は前3世紀〜後3世紀まで存在しました。これはサータヴァーハナ朝とほぼ同じ時代です。なので『同じ』だと覚えておくとよいでしょう。
*クシャーナ朝と同様、胡椒などをローマに輸出するインド洋交易で利益を上げました。ローマの金貨が多数出土しています。
*グプタ朝によって衰退させられました。

② 9世紀〜13世紀 : 後期チョーラ朝
【成立・滅亡】
846〜1279年 もう1度チョックラ走ろー人つなぐ
*パッラヴァ朝の封臣(諸侯)だったヴィジャヤーラヤがタンジャーブールを本拠地として起こした王朝です。
*前期に対して後期なので『もう1度』という言葉を入れました。『人つなぐ』というのは、チョーラ朝が、インド洋交易で東西の世界を結ぶ『海の道』の中継地となっていたからです。

・ヴィジャヤーラヤ (建国者)
【在位】
846〜871 一番目ろーやないか?勝利者や
*ヴィジャヤーラヤは一見覚えにくそうな名前ですが『ヴィジャヤ』は『勝利』の意味で、スマトラ島のシュリーヴィジャヤや南インドのヴィジャヤナガル王国などの名前に見られます。後は『ラヤ』を付けるだけです。
*パッラヴァ朝がパーンディア朝と争う過程で勢力を伸ばしていき、孫の代までにパッラヴァの領域を奪い取る形でチョーラ朝として独立しました。
*直接の関係はないものの、前期チョーラ朝の後継王朝であると自認していました。

・チョーラ朝の成長
920 パーンディアの国を奪おうマドゥライ陥落
*チョーラ朝との戦いに敗れたパーンディア王は、セイロン島に逃れました。

・シュリーヴィジャヤに遠征軍派遣
1025年頃 チョーラ来て一先ず降参シュリヴィジャヤ
*シュリヴィジャヤは、チョーラ朝の攻撃を受けて衰退しました。
*この様に繁栄した後期チョーラ朝は、12世紀末に衰退していき、13世紀後半(1279年)パーンディヤ朝に滅ぼされることになります。

【滅亡】
1279 チョーラ結局パーンディアの人に泣く


パーンディヤ朝(前3世紀〜1310)
・チョーラ朝の更に南にありました。
ドラヴィダ語族タミル人のヒンドゥー王朝 です。
・首都はマドゥライです。
【成立】
前3世紀 アショーカの前さ始まりパーンディア
アショーカ王の残した刻文によって、紀元前3世紀から存在することが知られています。インド最南端の土地に存在し、インド洋交易によって繁栄しました。

・ローマ帝国に使者が来訪
前22 紀元前パンディアローマに使者普通
→セイロン島と共に、真珠の養殖が盛んな地域で、真珠の取引でローマとの交易を行いました。遺跡からは非常に多くのローマ貨幣が出土しています。
・9世紀にセイロンを侵略
・ヴィジャヤーラヤがチョーラ朝を建て、チョーラ朝との戦いに敗れたパーンディア王はセイロンに逃れます。
920 パーンディアの国を奪おうマドゥライ陥落

*12世紀末、チョーラ朝の弱体化に乗じて王朝を再建します。
→これを後期パーンディアと言う
・チョーラ朝を滅ぼす
1279 チョーラ結局パーンディアの人に泣く
*中国などとの海外交易によって経済的繁栄を極めました。

*王位継承者争いが起こり、分裂状態に陥り、成立間もないハルジー朝に援軍を求めます。
→ハルジー朝は南インドに遠征軍を送りマドゥライに侵攻
・ハルジー朝のマドゥライ侵攻
1310 パーンディア悲惨というべき草の原
*最終的にはヴィジャヤナガル王国によって併呑されました。


ヴィジャヤナガル王国
14世紀前半から17世紀半ばまで
*実際には4つの王朝の総称です。
*デカン高原南の古都ヴィジャヤナガル(勝利の都)の名前を王朝名として用いています。
*南インドのヒンドゥー王国。デカン高原を含まない南インドほぼ全域。
*時代は北インドのデリー=スルタン朝によるイスラーム化が進行していた時代。
→捕虜となり、イスラーム教に改宗後、トゥグルク朝に仕えたハリハラ(針原)とブッカ(仏果)の兄弟が、トゥグルク朝の混乱に乗じて自立。(名前の漢字はイメージづけのために勝手に振っています)
・ハリハラ1世
即位
1336 ハリハラ1世トゥグルクをいざ去ろ
・ブッカ1世
即位
1356 いざ頃をみてブッカ1世
*伝統的なヒンドゥー教を守り、北のイスラーム王朝と盛んに抗争する。
・クリシュナ・デーヴァ・ラーヤ王
【在位】
1509~29 神王イー駒国救
*最盛期の王です。名前は、クリシュナは神様の名前で、デーヴァ(神)ラーヤ(王)で『神王』ですね。このころ、インドの軍隊の主力は、象部隊から騎馬兵団に変わっていました。北インドのイスラーム王朝侵攻の影響です。南のヴィジャヤナガルは、馬はアラブ商人から、インド洋交易を通じて買い入れていました。その後、ポルトガル商人が進出してきたことで、クリシュナ・デーヴァ・ラーヤ王は、彼らとの交易によって大量の馬を輸入しました。
・ターリコータの戦い
1565 イチコロ転がるヴィジャヤナガル
*デカン高原のデカン=スルターン朝に敗北し、首都も破壊されました。
・滅亡
1649 ヴィジャヤナガル王国一路死殿
*インドは全域がイスラーム教徒の支配下にはいる

・マイソール王国へ

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