フレーズ(語呂合わせ)の説明
*『イギリスの国王【早覚え完成】B』の語呂合わせフレーズの解説ページです。
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[アングロ=サクソン]
① エグバート(ウェセックス王)七王国統一
827(ヤツナ) 奴ならやるわエグバート
*エグバートはイングランドの七王国(ヘプターキー)の一つ『ウェセックス』の王で、初めて七王国を統一しました。このフレーズはあまり説明する必要はありませんね。
『奴なら(イングランド統一)やってくれると思ったわ』
というそのまんまの意味です。
(訂正)七王国(ヘプターキー)統合→エグバート(イングランド王国)
829(ハツク)アングロ=サクソンヘプターキーの運は尽く
*現在こちらの年号に統一しています。教科書の年号です。
→『ゲルマン人の大移動年語呂①』
② アルフレッド大王デーン人(ノルマン)撃退
*デンマーク(ユトランド半島)のノルマン人の一派デーン人は、ヴァイキングとしてブリテン島に侵入します。アルフレッド大王はこれを撃退し、デーン人の居住地をイングランド東北のデーンロウに限り認めることで平和条約を結びます。『やな奴』はもちろんデーン人です。
878(ヤナヤ) やな奴追い出し平和条約
*その後もデーン人との抗争が続きますが、アルフレッドは海軍など軍備の強化に取り組み、ロンドンをとり返します。
886(ヤッパロ) やっぱロンドンうちのもの
*893年以降もデーン人の侵攻がしばしばおこりますが、アルフレッド大王はこれらを退けました。(在位年の広がりをイメージするため入れました)
893(ヤクザ) ヤクザ野郎のデーン撃退アルフレッド
[デーン朝]
① デーン人 クヌート(カヌート)の征服
*デーン人のクヌートはデンマーク王家で、父の代からイングランドに侵攻していましたが、アングロ=サクソン家臣団の会議の結果、彼らに推挙されるという形でイングランド王に即位します。
1016(イマヒロー) クヌートが今披露するデーン朝
→クヌートは、ノルウェー・スウェーデンなどにも遠征を行い、ノルウェー王も兼ねることになり、デンマーク・イングランド・ノルウェーと『北海』にまたがる『北海帝国』を築きます。然し、クヌートの死後まもなく『北海帝国』は崩壊しました。
[ノルマン朝]
① ノルマンディー公ウィリアム(ウィリアム1世)即位
*もともとノルマンディー公国の始まりは、ノルマン人ヴァイキングの一派、ロロが西フランク王国北部に侵入(911)したことがきっかけです。ロロは西フランク国王の軍に敗れましたが、西フランク国王は、ロロに土地を与えノルマンディー公とすることで、他のヴァイキングの侵入を防ごうと考えました。
ロロのノルマンディー公国は教科書にも載っていますので、ゴロ合わせを載せておきます。
911(クイイ) ロロが食い入るノルマンディー
*このロロから数えて7代目にあたるのがノルマンディー公ウィリアムで、彼が血縁関係からイングランド王位を主張し、イングランドを征服するという形でノルマン朝が成立しました。これを『ノルマン=コンクェスト』と言います。
1066(イマムロ) 今、室が建つノルマン朝
→『室(むろ)』は単に『屋敷』というような意味で使っています。また、年号が『ロロ』になっているのも面白いですね。
→ノルマンディー公ウィリアムはイングランド王ウィリアム1世として即位しましたが、ノルマンディー公(西フランク国王の臣下)を兼ねていました。
[プランタジネット朝]
① ヘンリ2世、血縁関係でフランスから即位
1154(イイコヨ) 血統はいい子よそものヘンリ2世
*フランス出身で、母方でウィリアム1世の孫にあたります。父方、母方、婚姻相手から広大な領土を相続という形で受け継ぎ、イングランドに加えフランスの西側半分はほぼプランタジネット朝の領域となりました。
*ノルマンディーのルーアンが実質的な首都で、広大な領土を巡回するためイングランドに滞在する時間は少なく、英語もほとんど話せなかったと言われます。
*サラディンのアイユーブ朝にエルサレムを奪われたことで第3回十字軍が企画されます。フランスのフィリップ2世、イギリスのリチャード1世、神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世(赤髭王)というそうそうたる顔ぶれが参加します。
1189(ヒトビトヤク) 聖地奪回人々約して第3回
→『約して』は『約束し合って』みたいな意味です。
*結局、最後まで残って戦ったのはリチャード1世だけで聖地奪回こそなりませんでしたが、敵方を大いに恐れさせ、リチャード1世とサラディンは互いのの武勇を認める言葉を残しています。リチャード1世はイスラーム教徒に奪われたいくつかの都市を奪い返した上、キリスト教徒の聖地巡礼を認めることなど約し、サラディンと講和して帰国します(1192)
1192(イイクニ) お互いにいい国の王と認めて帰る
→『頼朝征夷大将軍』と同じ年ですね。リチャード1世は『騎士道の鏡』と言われていますが根っからの『戦争マニア』です。ただ、外征に明け暮れる姿にはあえて言えば一種の『無欲さ』の様な『良さ』はあります。まあ、単にそれ以外の西欧の権力者が狡猾で打算的すぎるという見方もありますが。
② ジョン王が教皇インノケンティウス3世に破門される
1209 教会の人に送らる破門状
*教科書に書いてある通り、ジョン王は、カンタベリー大司教の任命について、教皇インノケンティウス3世と争い、教皇に『破門』されました。結果、これに屈して謝罪し、いったんイギリス全土を教皇に献上して改めてこれを与えられるという、封建臣下の礼をとることで許されました。
1215 国王の人に以後課すマグナカルタ
*フィリップ2世にフランスのプランタジネット領のほとんどを奪われた『失地王』のジョンは、大陸領土を失ったことによる収入減と失地回復のための軍備増強で、重税を課したため諸侯や庶民の不満が高まります。ジョン王が大陸領土奪還をかけた戦いに失敗すると、諸侯は団結して国王に反抗し内戦状態に発展します。結局、ジョン王が諸侯側の要求した『マグナ・カルタ』をのむ形で和解が成立します。(1215)
*一旦は承認したはずの『マグナ・カルタ』ですが、ジョンは教皇に取入って『マグナ・カルタ』の無効と、反乱諸侯の破門を宣言してもらいます。これに対し諸侯たちは、大陸領土を回収し終わってイングランド侵攻を狙っていたフランスのフィリップ2世の王太子ルイを担ぎ出します。ルイがロンドンであわや即位かというときにジョン王が死に、後を継いだ幼いヘンリ3世を諸侯たちが支持したため、ルイはフランス撤退を余儀なくされました。
(このルイはルイ8世としてフィリップ2世死後フランス王位を継ぎます)
④ マグナ・カルタ(大憲章)を無視したヘンリ3世がシモン=ド=モンフォールをリ-ダーとする諸侯勢力に敗れ、議会で改めて諸侯の要求を承認
1265(イツ・ムコ) いつから向こうに風が吹いてるシモン=ド=モンフォール
*幼くして即位したヘンリ3世は諸侯への不信感が強く、外国人の側近を重く用い度重なる外征に失敗しました。神聖ローマの皇位継承などに介入して財政難を招き、課税強化を行うなどして諸侯と対立したため、諸侯は、シモン=ド=モンフォールをリーダーとしてこれに対抗します。マグナ・カルタに加え、国王を監視する国王評議会の設置や定期的に議会を開くことなどの要求を盛り込んだ『オックスフォード条項』の承認をヘンリ3世に迫り、これらを認めさせました。(1265)
*まさにシモン=ド=モンフォールの側に「(追い)風が吹いている」状態でしたが、諸侯たちは、今度はシモン=ド=モンフォールに権力が集中することを警戒し始め、とらわれていた王太子エドワードが脱出に成功するとこれを支持して王権が回復、シモン=ド=モンフォールら改革派は結局敗れて死ぬことになります。
⑤ エドワード1世のもと模範議会が開かれる
1295(イーフク・コー) 反対も言い含めてこう模範議会
*エドワード1世はイギリス国王としては久しぶりの剛腕の国王で、模範議会以外にも、エドワード1世主導のもと、大々的に法の整備が推し進められ、ウェールズは征服され、スコットランドに侵攻が行われ、このとき始まった英仏戦争が後の百年戦争につながっていきます。更にこの時期、イギリスでは大陸に先だって封建制が崩壊し始めています。イギリス史上最低の国王と言われる息子のエドワード2世と並んで、間違いなく重要な国王なのですが、教科書ではもっぱら『模範議会』に焦点が絞られています。
*もっとも『模範議会』が重要なことに変わりはありません。当時スコットランドやフランスとの戦争で莫大な戦費が必要であったエドワード1世は、広い社会階層の支持を取り付けなければなりませんでした。そこで、貴族、聖職者、市民など、高位の者、下位の者、様々な社会各層を『代表する』ものが広く招集されました。広い社会階層の理解を得るという国王側の要求がこれを実現したのですが、これが後世『模範的な』議会の在り方と考えられ『模範議会』と呼ばれている訳です。(1295)
⑥ エドワード3世が百年戦争きっかけ(1339)
1339(ヒトサンザンク) 人散々苦しむ百年戦争
*教科書にあるとおり、フランスのカペー朝が断絶した際に、エドワード3世が母方の血筋を理由に王位継承権を主張したことが百年戦争のきっかけになりました。『教科書そのまま系』のフレーズを作っています。リンクを聞いてみてください。
→『人散々苦しむ』に異論はないでしょう。何と言っても『百年戦争』ですよ。
・エドワード黒太子(百年戦争で活躍)
*これも『教科書そのまま系』のフレーズを作っています。
*イギリスの長弓(ロング・ボウ)隊が活躍したことは教科書にもありますが、これはもともとウェールズに侵攻した際にイングランド軍が苦しめられたもので、先にふれたエドワード1世のウェールズ征服に伴って、その技術がイングランドに入ったものです。
*エドワード黒太子はイングランド王太子で『プリンス・オブ・ウェールズ(ウェールズ大公)』の称号をもっています。この称号も、もとはエドワード1世がウェールズ征服を遂げた際に、王太子エドワード(エドワード2世)にウェールズ大公の称号を与えたのが始まりで、エドワード黒太子以降、王太子がプリンス・オブ・ウェールズとなることが慣例化しました。
[ランカスター・ヨーク]
バラ戦争
1455(イヨココ) いよいよここにバラ戦争
*これも『教科書そのまま系』のフレーズが作ってあります。ランカスター家とヨーク家の争いの中で、実力を現したヘンリ7世が即位してテューダー朝につながります。
*単純なフレーズだからこそ出てきにくいというのがあるので『いよいよここにバラ戦争』『いよいよここにバラ戦争』と何度も自分に言い聞かせましょう。
[テューダー朝]
① ヘンリ7世即位(1485)
1485(ヒトヨワッテコ) ランカスヨークの人々弱ってこの男
*『教科書そのまま系』のフレーズの中にも『意志はごっついテューダー朝』というゴロ合わせを入れています。どちらで覚えても構いません。『ゴロ合わせの宝石箱や』と言われるように頑張ります。
*ランカスター・ヨーク両家が争いの中でどちらも『弱って』結局『ヘンリ7世(この男)』が即位したというのは、『教科書そのまま系』のフレーズでもふれている通りですね。
② ヘンリ8世が『首長法』によってイギリス国教会の首長を宣言する(1534)
1534(イコミヨ) 王様は教会コミよ首長法
*イギリスのキリスト教改革(宗教改革)をテーマとして教科書ではヘンリ8世・エドワード6世・メアリ1世・エリザベス1世と4人の国王にふれています。
*国王は普通、国の『首長』で宗教は別のはずですが、そうじゃなく、教会も『コミ』で首長やらしてもらうんで以後よろしく、というのがフレーズの意味です。『会コミよ』はちょっと覚えにくいので、『534(コミヨ)』を中心にして覚えるといいでしょう。
③ エドワード6世 (子)(教義改革)
④ 女王メアリ1世(血のメアリ)(姉)(カトリックに戻す→新教弾圧)
*これら、二人の国王は年号には入れませんでした。あえて言えば女王メアリ1世の在位は(1553~58)なので『新教は以後降参こわ、血のメアリ』と覚えておくといいでしょう。
⑨ エリザベス1世 (妹)
1.統一法(イギリス国教会)(1559)
1559(イゴコク) イギリスは以後国教会統一よ
*女王メアリ1世のもとでカトリックに戻そうという反動的な動きがありましたが、結局『統一法』で『以後国教会』に『統一よ』ということになります。
2.アルマダの海戦(1588)
1588(イゴワヤ) 以後ワヤになる無敵艦隊
*スペイン語で海軍を『アルマダ』と言い、スペインの無敵艦隊のことを通称『アルマダ』と言います。で『イギリスがスペインの無敵艦隊を破った戦い』のことを『アルマダの海戦』という訳です。
*『ワヤになる』というのは『ダメになる』といった意味です。実際にはスペインはこの敗北で大して『ダメにな』った訳ではないんですが、将来のスペイン海軍の衰退とイギリス海軍の勃興を『予見したような結果』になったくらいに思っておいてください。
3.東インド会社の設立(1600)
1600(ヒトムレヲ) 人群れを海外押し出す東インド会社
*イギリスの有名な『第一次囲い込み→毛織物工業』の流れ、『ドレークの海外周航→イギリスの海外進出』の流れの先にこの『東インド会社の設立』があります。こう覚えると要点が一挙に押さえられますね。『ドレークの海外周航(1577~80)』もエリザベス1世の時代です。
*もちろん『1600』というキリのいい年号は覚える助けになりますね。関ヶ原の戦いと同じ年です。フレーズは『イギリスの人の「群れ」を海外に押し出す』という意味です。『海外進出』のことですね。
[スチュアート朝]
① ジェームズ1世(スコットランド王家)→王権神授説をとなえる
1603(イロオサ) ブリテン島色々治めるスチュワート朝
*スコットランドの国王が、イングランド王位を継承する形でスチュアート朝が開かれます。徳川家康が征夷大将軍になった年です。後の1707年に合同して『グレートブリテン王国』が成立しますが、この時点では、国王は同じで、議会や政府は別という状態でした。こういう形態を『同君連合』と言います。で、スコットランド、イングランド2国の王なので『ブリテン島色々治める』というフレーズになっています。
② チャールズ1世 (子)
→イギリス革命(ピューリタン革命)(1640〜1660)
*チャールズ1世はイギリス革命(ピューリタン革命)の際の国王なので年号が多くなっています。
・権利の請願
1628(イモムゲンニハ) 神の権威も無限にはない権利の請願
*『1(威も)6(無限)28(には)』と数字ごとに強調して覚えます。ちょっと強引ですね(笑) 語呂合わせも色々やっているとこういうことがしたくなってくるんですよ。
ふつうに『国王の色には染まらぬ権利の請願』とかで十分なんですがね。
・短期議会、長期議会(~53)
1640(ヒトムシヲ) 王の人ムシを重ねて議会解散
*チャールズ1世は国民の意見に対して無視を決め込んで11年議会を開かなかった後、1640年春の議会でも国王と議会が対立したため、すぐに解散してしまいました。同じ年の秋に開いた議会(長期議会)が具体的な『内戦』につながっていきます。
・王党派と議会派の内戦
1642(ヒトムヨーニ) 王の人無用になったとピューリタン
*もともと中学生はこの内戦を『清教徒(ピューリタン)革命』として覚えていたので、このようなゴロ合わせになっています。『王の人無用になった』というのは、議会派の中でも急進的な『独立派』の主張です。
1649(イロデシク) チャル1の血の色で敷く共和制
*鉄騎隊を率いた独立派のクロムウェルは、議会派を勝利に導くと、穏健派の『長老派』を追放してチャールズ1世を処刑してしまいます。『共和制を敷く』と『国王の血の色で敷く』をかけています。
クロムウェル
・航海法
1651(イチロコイ) 一路来い中継ぎとおすな航海法
・英蘭戦争
1652(ヒトムコーニ) 対岸の人向こうに回し英蘭戦争
*クロムウェルの独裁政権下ですが、当時のライバルであるオランダ潰しの政策が行われます。オランダは当時中継貿易で栄えていたので、『中継ぎをとおすな』というのが『航海法』で『一路来い』とは、貿易ではイギリスの船か、原産地の船を使って『そのまままっすぐ来い』ということです。
*『対岸の人』は『オランダ人』のことです。対岸の人なので初めから『向こうに回し』ているのですが、対立することを『向こうに回す』というので、これも言葉を懸けています。
③ チャールズ2世が王政復古 → カトリック擁護・新教徒の逮捕・弾圧 → 審査法(1673)・人身保護法(1679)
・王政復古
1660(イチロムレ) 一路群れなし王政復古
*クロムウェルの息子リチャードに統率力がなかったため、クロムウェル死後のイギリスは混乱し、クーデターによる軍事政権などへて、最終的にスコットランド駐留軍の司令官ジョージマンクがロンドン進軍によって事態を収拾したことで『王政復古』への道が開けます。
*つまり『一路群れなし』と言うほどストレートにことが運んだ訳ではありませんでした。『一路群れなし』はマンクのロンドン進軍のことだと思ってください。
・審査法
1673(イロンナサ) 色んな定めを審査法
*フランス生活が長く『カトリック擁護』の立場をとったチャールズ2世に対して、議会が対抗して制定した『官吏を国教徒に限定する』法律です。『国教会で定めた儀式を受けているか』などの宗教審査が行われる訳です。
・人身保護法
1679(イロンナク) 国民の色んな苦しみ防ぐ保護法
*また、新教徒の逮捕・弾圧などに関連して『国民を不当に逮捕・投獄することを禁じる』人身保護法が成立しました。
・トーリ・ホイッグ両党成立
*これも宗教がらみで、次の国王ジェームズ2世がカトリック教徒であったことから、ジェームズの王位継承を支持するトーリ党と、反対するホイッグ党に分かれて争い始めたのが、イギリスの二大政党制のもとです。トーリ党は王権神授説を支持する国教徒です。単に議会の王権への介入を嫌ったまでで、非国教徒(新教徒)に寛容なホイッグ党と同様、カトリックに反対の立場であることには変わりはありません。
*これは年号はありません。『人身保護法と大体同じころ』でいいと思います。
④ ジェームズ2世が、カトリックと絶対王政を復活しようとする → 名誉革命(1688) → 亡命
1688(ヒロバハ) ジェム2逃亡 広場は無血の名誉革命
*A段階で国王をしっかり覚えているみなさんは『ジェム2逃亡』は省略してOKです。覚えるのは『広場は無血の名誉革命』これだけですね。
⑤ ウィリアム3世・メアリ2世 (オランダ総督ウィレム・メアリ) → 権利の章典(1689)
1689(イロヤク) 色々約束権利の章典
*ジェームズ2世に代わってオランダから迎えられた国王が『権利の宣言』を受け入れて同年に議会が『権利の章典』として制定します。『色々約束』している訳です。100年後がフランスの『人権宣言』また『アメリカ合衆国憲法』の年、更に100年後が『大日本帝国憲法』公布というのは有名ですね。→『17世紀後半英蘭仏年語呂【年号ゴロ合わせ】(まとめ)』
・イングランド銀行
1694(イリムクシ) イングランド銀行政府の物入り向くシステム
*『イングランド銀行』は政府への貸付を主な業務とする銀行で、後に中央銀行となります。『物入り』とは『出費がかさむこと』です。
⑥ アン女王 →大ブリテン王国(1707)
1707(イーナオンナ) イーナおんなじ大ブリテン
*アン女王のときにイングランドとスコットランドは合同して『グレートブリテン王国』となります。
[ハノーヴァー朝]
① ジョージ1世 (ハノーヴァー選帝候) (1714)
1714(イナイヨ) 後継ぎいないよハノーヴァー朝
*後継ぎがいなくなりドイツの『ハノーヴァー選帝候』が国王として迎えられました。
② ヴィクトリア女王 (1837~1901)
1837~1901(イヤサナヒトクレイ) イギリスが強すぎ嫌さな人暗れい
*『ヴィクトリア時代』はイギリスの黄金期です。でも、イギリス以外の国から見れば『そらぁ、嫌さなぁ』ということになります。イギリス以外の人々にとっては『クレイ(暗い)』話ですね。