アメリカ合衆国年語呂①【年号ゴロ合わせ】


*これは年語呂年註-世界史版のひとつです。このページではアメリカ合衆国の歴史の概略をゴロ合わせでおさえていきたいと思います。
*音声で耳から覚えるためYouTubeに教材を上げています。こちらです。

*アメリカ大統領とその在任期間を覚えるには次のページを参考にしてください。
→『アメリカ合衆国大統領【じゅず学】
→『アメリカ歴代大統領【在任期間のおぼえかた】


・ヴァージニア植民地設立
1607年 人群れ並んでヴァージニア
*イギリス国王ジェームズ1世に勅許された特許会社、ヴァージニア会社によって入植地ジェームズタウンが建設されました。
*イギリスのウォルター=ローリーはこれに先立つ158587年(以後はこーやなヴァージニア)、エリザベス女王(処女王)にちなんで『ヴァージニア』と名付けたロアノーク島への植民を試みましたが、その後入植者が行方不明となり失敗しました。(失われた植民地)
ローリーによる植民は、ローリー個人と知人たちによる出資で行われたものでしたが、その後のヴァージニア会社は、国王の勅許のもと、多くの株主から広く出資を募ることで植民地の建設を可能にました。
*当初、入植者の生活は困難を極めましたが、ジョン=ロルフが、先住民の栽培していたタバコに着目し、ヴァージニア植民地の生活は、本国へのタバコの輸出によって軌道に乗ることになります。

・ヴァージニア植民地議会
1619年 ヴァージニア挑む一括りの会議
*語呂に引っ張られてyoutubeヴァージニア植民地会議となっていますが議会です。
*本国イギリスの議会制にならって行われた最初の植民地議会です。初期の植民地存続の困難から、ヴァージニア植民地には大幅な自治が認められていましたが、議会設立により自治の精神がより固く培われていくことになります。

・メイフラワー号プリマス到着
1620年 理想郷の位置むつれだすメイフラワー
*信仰の自由を求めて移住を決めた、清教徒の『ピルグリムファーザーズ』達が、船上でキリスト教徒の理想社会をつくることを互いに誓い合い(メイフラワー誓約)、アメリカに上陸しました。

・イギリス新大陸のニューネーデルラント侵略
1664年 オランダをむしろう新大陸
→その後の第二次第三次英蘭戦争(1665~67,1672~74)を経てイギリス領となる。
*中心都市ニューアムステルダム→後のニューヨークです
→『イギリス=オランダ戦争年語呂

・アン女王戦争
1702〜13 アン女王の援軍いーな待ついーさ
*ヨーロッパのスペイン継承戦争(1701~1713)と連動して起こった英仏の植民地戦争です。
→『第二次百年戦争年語呂

・ユトレヒト条約
1713 勝手な人なお人々難渋さ
→『スペイン王国年語呂
*フランス・スペインがオーストリア以外の相手国と結んだスペイン継承戦争(1701~1713)の講和条約です。
*イギリスは、フランスからニューファンドランド島アカディア島ハドソン湾沿岸部を獲得しました。

・13植民地成立
1732年 13の地がいーな満つ
*イギリスの13植民地が全て揃いました。
*ここから『イーナ』ばっかりになりますが、意外とその方が覚えやすかったりします。
→『イギリス13植民地を覚える!』

・ジョージ王戦争
1744〜48 いーな獅子の世やジョージ王戦争
*その王室の紋章からイギリスはしばしば『獅子(ライオン)』に譬えられます。
*ヨーロッパのオーストリア継承戦争(1740~1748)、インドの第一次カーナティック戦争(1744~48)と並行して行われた戦争です。
→『第二次百年戦争語呂

・フランクリン避雷針発明
1750年 雷除けにいーなこれ
*この2年後、1752年に有名な凧の実験で雷の正体は電気だと証明します。
wikiでは1749年とされています。

・フレンチ=インディアン戦争
1755年 いーなゴーゴーインディアン
→本国の七年戦争(1756~1763)と連動して起こった英仏の植民地戦争です。
イギリス植民地の人々は、アパラチア山脈以東に居住地を定められました。
*本国が戦後の財政赤字のしわ寄せとして植民地に課税しようとしたことが、独立戦争につかながっていきます。

・イギリスのカナダ支配
1760年 英領カナダの人なろう
*前年のケベック占領、この年のモントリオール占領により、イギリスのカナダ支配が確立しました。1763年のパリ条約でイギリスのカナダ領有が決まります。

・英仏パリ条約
1763年 フランスの人南無三のパリ条約
*七年戦争(フレンチ=インディアン戦争)が終結し、フランスはニューファンドランド島沖の漁業権と、サンピエール島・ミクロン島の領有権を残し、他の北アメリカ領土のすべてを失いました。

・砂糖法
1764年 いーな無視して砂糖法
*イギリスがフレンチ=インディアン戦争によって負った莫大な負債の穴埋めとして、植民地に対し立て続けに新たな課税が行われます。
*以前よりラム酒の製造を行って海外に輸出していたアメリカでは、その原料として必要な『糖蜜』に本国が高い関税をかけたため、これを密輸入していました。
これに対し、 本国イギリスが、法の違反者に対する処置を厳しくて、密貿易を行えない様にしたのが砂糖法です。アメリカの業者は、法外に高い関税を本国に払う以外になくなりました。つまり商売あがったりということです。当然不満の声が上がります。

・印紙法
1765年 代表ないからいーな無効と印紙法
*様々な出版物や広告、証券類に、本国発行の『印紙』を購入し貼ることを義務付けた法律で、言論・出版の自由を制限するとして、各地でボイコットが起こるなど騒動となりました。
*これを受けて翌年には撤廃されました。
*このころ『代表なくして課税なし』という主張が行われました。イギリス議会に代表を出すことを認められていないアメリカ植民地人は、本国から税を課せられるいわれはない!という理屈です。

・タウンゼント諸法成立
1767年 本国に否むなタウンゼント諸法
*イギリス本国がアメリカ植民地に対して定めた一連の法律です。植民地からの税収を増やして、統治に携わる総督・判事の報酬を賄い、かつそれらの担当者を、現地のルールから独立させる。
法の厳格化により、植民地の貿易を本国が統制し、植民地への課税権が本国にあることを明確にすることなどをねらいとしていました。
*植民地側の抵抗にあい、現地のイギリス軍と住民との間で緊張が高まり暴動、翌年1768年には、イギリス軍によるボストン占拠が行われます。

・ボストン虐殺事件
1770年 散髪でもめても英雄いーななれ
*タウンゼント諸法への反対から、暴動が頻発する中、イギリス軍大尉と現地の民間人が、散髪代が元でもめたことがもとで、他の民間人も加わって軍兵士に投石を行うなどの騒ぎになり、イギリス軍が民間人に発砲、5人が死亡し6人が負傷しました。
*独立派は、積極的にこの事件を『虐殺』と呼び、反イギリス本国の宣伝材料としました。

・ボストン茶会事件
1773年 お茶の海イーナ波乗り茶会事件
*ボストン虐殺事件の後、本国は新税のほとんどを廃止しましたが、茶への課税は残し新たに『茶法』を制定しました。
『茶法』は、本国の課した茶税を逃れるため、植民地人が、オランダから茶を密輸入していたのを取り締まり、大量の茶の在庫を抱えていた東インド会社に茶の販売独占権を与えるという内容でした。
『茶法』に反対するボストン住民が、インディアンに扮装し、ボストン港に停泊していた東インド会社の貨物船を襲撃し『ボストン港をティーポットにする』などと言いながら、積まれていた多数の茶の箱を海に投げ入れたという事件です。

・植民地大陸会議
1774年 本国の非難なしつつ大陸会議
→本国に自治の尊重を要求。
→翌年に独立戦争始まりました。

・アメリカ独立戦争(1775)
レキシントンの戦い

・アメリカ独立宣言
1776年 イーナ成ろうよ独立国(7月)
→トマス=ジェファソンが起草しました。
→独立を常識と説いたトマス=ペインのパンフレット『コモン=センス』は同年初めに出版されました。

・サラトガの戦い
1777年 逆転でいーな中々サラトガ勝利
サラトガの戦いでの独立軍の勝利は、苦戦が続いていた独立軍にとって転機となりました。
→この勝利により、翌年(78)それまで様子見をしていたフランスの参戦を実現させることになります。
*サラトガから1年毎に独立側に立って参戦する国を覚えます。
→1778 フランス参戦
→1779 スペイン参戦
→1780 オランダ参戦

・武装中立同盟
1780年 無関係イーナやればと中立同盟
→イギリスの、対アメリカ海上封鎖に対し、ロシアのエカチェリーナ2世が、中立国の船舶の運行の自由を要求しました。
→海上封鎖は撤退できず、独立軍に有利となりました。

・ヨークタウンの戦い
1781年 戦争にイー縄引いたヨークタウン
→独立軍の勝利です。このヨークタウンの戦いで、ほぼ独立軍の勝利が確定しました。

・パリ条約(アメリカ独立承認)
1783年 イギリスの人悩みの末独立承認
→イギリスがアメリカ合衆国の独立を承認しました。

〈ワシントン(1789〜97)〉

・ワシントン大統領就任
1789年 イーナ約束人権宣言(フランス革命)
*フランス革命と同年と覚えます。
*この前々年の1787年、アメリカ合衆国憲法がフィラデルフィアの憲法制定会議で採択され、前年1788年に施行されています。

・ホイットニー綿繰り機を発明
1793 沢山の人無くさっと綿繰り機
*この綿繰り機の発明があったことで、アメリカ南部の生産性が上がった一方で、奴隷制度は不可欠のものとなり、南北対立、ひいては南北戦争の遠因となりました。

〈J.アダムズ(1797〜1801)〉
〈ジェファーソン(1801〜09)〉

・1800年の大統領選挙
1800年 独立宣言書いた人は俺大統領
*民主共和党(リパブリカン党)のトマス=ジェファソンが大統領に選出され、連邦党の時代が終わりました。このことから、アメリカの政治史の画期、1800年の革命とも言われます。
*独立宣言の主な起草者、ジェファソンの任期は、1801〜1809の二期。

・ルイジアナ、スペイン領からフランス領へ
1800年 ルイジアナいーわまるまるフランス領
*スペイン領でしたが、既に100年以上もの間、フランス人社会が定着していました。
*スペインを占領したナポレオンは、ルイジアナを取り戻していましたが、イギリス(カナダ)を警戒しこのことは秘密とされました。

・合衆国がルイジアナ買収
1803年 フランスの人は押されてルイジアナ売る
*当時、イギリスと敵対していたナポレオン執政下のフランスには、カナダのイギリス軍にこの地に侵攻された場合これを守り切ることはほぼ不可能でした。
*また、財政上の必要もあって、ナポレオンはアメリカ合衆国ジェファーソンに対しルイジアナを1500万ドルで売却しました。

・ハイチ共和国独立
1804年 共和国成ってハイチはひと晴れよ
→フランス革命の影響を受けたトゥサン=ルヴェルチュールの部下達により実現。
→ラテンアメリカ諸国の独立のさきがけとなりました。ラテンアメリカ諸国の独立は、アメリカ合衆国のモンロー主義の主張につながっていきます。

〈マディソン(1809〜17)〉

・アメリカ=イギリス戦争
1812〜14 州の団結祝いにイーヨ米英戦争
*ナポレオン統治下のヨーロッパで、イギリスが海上封鎖を行い合衆国の通商を阻害したために起こりました。
*イギリスの工業製品の輸入が途絶えることで、かえって国内の工業化が進みました。

〈モンロー(1817〜25)〉

・ミズーリ協定
1820年 南北の意はズレズレのミズーリ協定
→北緯36度30分以北に奴隷州を作らない。
*ミズーリ妥協とも言います。ミズーリ州が、奴隷州として合衆国への加盟申請を出したことに端を発しました。
*問題は議員数でした。各州から上院議員が2名ずつ代表となっていたのですが、当時、自由州11、奴隷州11と、数が同数で、ミズーリ州が加わると奴隷州の代表が自由州の代表を上回ってしまうことになり、奴隷州の議員の発言権が大きくなります。
*結局、奴隷州のミズーリ州に加えて、自由州ののメインを州に昇格することで均衡を保とうやとなったのが、ミズーリ協定です。
*また、将来的には、北緯36度30分を境界に、それより以北に奴隷州を作らないという修正も加えられました。当時すでに世界的に奴隷制は問題とされていたわけです。

・モンロー教書
1823年 アメリカいー奴見せかけモンロー教書
*反動主義的なウィーン体制下にあって、ヨーロッパと同様にアメリカ大陸でも、社会改革的な動きを封じたいと望む西欧諸国に対して、その干渉を排除し、合衆国の『孤立主義』を外交政策として鮮明に打ち出したものです。
*特に、独立を達成したラテンアメリカ諸国に圧力をかけ、再び植民地化を狙うスペインを警戒し、アメリカ両大陸とヨーロッパ大陸との相互不干渉を主張しました。
*これは実際には、ラテンアメリカ諸国に対する合衆国の優先権の主張となっていきます。という背景から作った語呂です。

〈J.Q.アダムズ(1825〜29)〉
〈ジャクソン(1829〜37)〉

・ジャクソン大統領就任(7代)
1829年 ジャクソンの開拓西部に人は着く

・先住民強制移住法
1830 先住民の人は去れよと強制す
*ジャクソン大統領のもと、アメリカ先住民をミシシッピー川以西の辺境に移住させる法律が制定されました。

〈ヴァン=ビューレン(1837〜41)〉
〈ウィリアム=ハリソン(1841)〉
〈タイラー(1841〜45)〉

・テキサス併合
1845年 テキサスくらいいーやよこせと併合す
→メキシコとの対立激化

〈ポーク(1845〜49)〉

・アメリカ=メキシコ戦争
1846年 イヤシー論争米墨戦争 (〜48)
→2年後、アメリカ勝利。カルフォルニアなど獲得。

・カルフォルニアで金鉱発見
1848年 金鉱に人は呼ばれてゴールドラッシュ

〈テーラー(1849〜50)〉
〈フィルモア(1850〜53)〉

・1850年の妥協
1850年 いーわこれでと妥協する。
*米墨戦争により発生した領土について奴隷州と自由州の利益のバランスをとった協定です。
① 北緯36度30分の境界がど真ん中を通っていたカルフォルニアを自由州として加盟させた。
② このことに南部の奴隷州側が不満を持ったので、その後『逃亡奴隷取締法』が可決され、南部の要求をくむ妥協がはかられた。
→南北戦争を『延期』する役割を果たした。

・ストゥ夫人『アンクル=トムの部屋』
1852年 アメリカの人はゴッツ買うアンクル=トム
*前年より、雑誌に掲載された、黒人奴隷の悲惨な状況を描いた小説で、単行本として発売されると、一大ベストセラーとなりました。
* リンカーンも読み、南北戦争を生み出したとされる小説です。

〈ピアス(1853〜57)〉

・カンザス=ネブラスカ法
1854年 南部の人の総意はこーよとネブラスカ法
*カンザス・ネブラスカ両準州の昇格の際に民主党主導の議会が制定した、ミズーリ協定を破棄し、将来的に自由州・奴隷州の選択はその地の住民の意志に任せるとした法律。
*本来ならミズーリ協定により奴隷州となることが禁じられた土地であったため、奴隷廃止派にとっては許容できない後退であり、反発した北部は共和党を結成(1854)。二大政党が、奴隷制の是非をめぐり相争う形となった。

・日米和親条約
1854年 結局は嫌々こーよ和親条約
→同年、民主党結成。

・ドレッド=スコット判決
1857年 司法でも意はこーなるさドレスコ判決

〈ブキャナン(1857〜61)〉
〈リンカン(1861〜65)〉

・南北戦争
1861年 アメリカの人ハローって南北戦争 (〜65)
→前年(1860)の選挙で共和党リンカン大統領当選
→1861年、南部諸州アメリカ連合国
(大統領ジェファソン=デヴィス)
→同年、フランスがメキシコ出兵

・奴隷解放宣言
1863年 黒人差別の人は無残と解放宣言
→同年、ゲティスバーグの戦いに勝利

・憲法修正で黒人奴隷解放
1865年 黒人差別の人は酷(むご)いと憲法修正
→同年、南北戦争終結
→同年、リンカン暗殺

〈A.ジョンソン(1865〜69)〉

・ロシアからアラスカ買収
1867年 ロシアに金だし買ったアラスカいばろーな
→同年、フランスがメキシコから撤兵

・大陸横断鉄道完成
1869年 横断鉄道できて西部に人は向く

〈グラント(1869〜77)〉

・ニューヨーク地下鉄開通
1871年 妨げる岩無い地下鉄ニューヨーク

・ベルの電話機発明
1876年 かけたら何か言わな無視ダメベルの電話機

〈ヘーズ(1877〜81)〉

・エディソン蓄音機発明
1877年 イーワ鳴る蓄音機
*エディソンはこの2年後『電灯』を発明しました。

〈ガーフィールド(1881)〉
〈アーサー(1881〜85)〉

・中国人労働者移民排斥法
1882年 もうイーワ奴入れんでと排斥法
ゴールドラッシュの金鉱採掘や大陸横断鉄道といった苛酷な労働に当てるため中国から輸入されていた『苦力(クーリー)』ですが、安価な労働力が白人労働者の仕事を奪っているという不満の声が高まり、中国人労働者移民排斥法が成立しました。
*以後、中国人に代わって日本人移民が急増していきます。

〈クリーヴランド(1885〜89)〉

・アメリカ労働総同盟(AFL)結成
1886年 労働者一派やろうや総同盟

〈B.ハリソン(1889〜93)〉

・第一回パン=アメリカ会議
1889年 大陸の人は約束パン=アメリカ

・フロンティア消滅宣言
1890年 アメリカに人は隈なくフロンティア消滅
→フロンティア: 荒野と開拓地の境界の人口過疎地域。

・シャーマン反トラスト法
1890年 独占じゃ社会は暗えとシャーマン法
*独占資本が自由競争と消費者の利益を損なうとして、その防止のために制定されましたが、現実に独占を抑えるだけの効力はありませんでした。

・エディソン活動写真発明
1893年 いー役見たい活動写真

〈クリーヴランド(1893〜97)〉
〈マッキンリー(1897〜1901)〉

・米西戦争(アメリカ=スペイン戦争)
1898年 アメリカの人は食わむよスペイン領
→一度は独立を宣言したキューバに、なおも圧力をかけていたスペインに対して、キューバの砂糖に投資していたアメリカが、スペインを排除しようとして起こった戦争。当時世界一の工業国となり、大財閥の政治的影響力も顕著となっていたアメリカの、最初の帝国主義戦争です。
パリ条約(1898)で、フィリピン・グアム・プエルトリコなど、スペインの植民地がアメリカ領となりました。
→同年、キューバに『プラット条項』を押し付け保護国化しました。
→前年、ハワイの併合が決まりこの年に批准されました。

・フィリピン=アメリカ戦争
1899 フィリピン人ひっ迫苦しい米比戦争(~1902)
アギナルドを中心とするフィリピン軍は、米西戦争でもアメリカ側について戦いましたが、パリ条約(1898)でスペインからフィリピンを2千万ドルで買った合衆国はフィリピン独立を否定し、ここに米比間の戦争がおこりフィリピンは敗れました。

・ジョン=ヘイが中国の門戸開放を要求
1899年 ジョン=ヘイはぎゅーぎゅー開けと門の戸を押す
*アメリカ=スペイン戦争でフィリピンを得たアメリカは、そこを拠点に中国市場への参入を模索することになります。然し、既に1898年に英仏独露などの租借地が設けられ、中国分割が始まっていました。
*そこで、国務長官ジョン=ヘイは、清における各国の通商権や関税などをすべて『平等』とする門戸開放・機会均等の原則を提唱しました。
*更に1900年には、これらに清の領土保全の原則を加えます。
*人道主義や公正の論理で、自国の国益に有利な展開を作り出そうとする合衆国の外交の特色がよく表れています。

〈T.ルーズベルト(1901〜1909)〉

・ライト兄弟飛行機発明
1903年 飛行機で行く大ライト兄弟

・日露戦争
1904年 満州のイー地くれよと戦争す
*満州をめぐって日露戦争が始まると、セオドア=ローズヴェルトは、どちらかが決定的な勝利を収めて満州権益を独占するのをおそれ、仲介に乗り出しました。
*日本の南満州鉄道の敷設権獲得についてもアメリカは、門戸開放に反すると主張して抗議しました。
*日本はこれに対しロシアに近付き、満州南北の双方の権益を、日露で互いに認め合う『日露協約』を結びました。

〈タフト(1909〜13)〉

・メキシコ革命
1910〜17 これうまく行くといーなメキシコ革命
ディアスの独裁政治に対する自由主義者のマデロを中心とした革命。ラテンアメリカ初の民主化を求めた革命でした。
*後に『宣教師外交(ラテンアメリカに民主主義を布教しようという外交)』のもと、ウィルソン大統領は革命に介入し、軍隊を派遣しましたが、却って反米感情を強める結果になり失敗しました。

〈ウィルソン(1913〜21)〉

・パナマ運河完成
1914年 右左いく人良いわパナマの運河
*合衆国が管理権をにぎり、中米カリブ海の覇権を確立しました。

・ドイツ無制限潜水艦作戦
1915年 Uボート行く以後魚雷で無制限
*英仏の海上封鎖に対してドイツは無制限潜水艦作戦を宣言し、イギリス周辺の商船は予告なしに魚雷攻撃を行うと宣言しました。
*Uボートに沈められたアメリカ行きのイギリスの豪華客船ルシタニア号に、多くのアメリカ人乗客が乗っていたことで、米国世論は対ドイツ開戦へと傾いていきます。
*ドイツは国際的な非難の高まりの中、無制限潜水艦作戦を一時的に控えました。

・ドイツ無制限潜水艦作戦再開
→アメリカ合衆国参戦
1917年 船で行く人なべて沈める潜水艦
モンロー教書以来の孤立主義を維持して第一次世界大戦に中立を守っていた合衆国は、ドイツの無制限潜水艦作戦の再開にあたり対ドイツ参戦を決定しました。

・ウィルソン14ヶ条
1918年 財団もひどくいーわと14カ条
*前年、ロシア革命により誕生したソヴィエト連邦のレーニンが、即時講和や秘密外交の廃止を宣言したのに対し、協商側の戦争目的の明確化のためにウィルソンが発表したものです。
*その中でウィルソンは、国際協調主義、無賠償・無併合・民族自決の原則、戦後の国際平和機構の設立などを掲げました。
*ウィルソンはノーベル平和賞を受賞しました。ということでこの語呂です。『財団』はノーベル財団です。

・パリ講和会議(ヴェルサイユ条約)
1919年 行く行く三一五四ヴェルサイユ
*中学生向けの語呂で『三一運動』『五四運動』と一緒に一気に覚えるものです。
*米英仏伊日の5大国を会議の中心として行われました。
*ウィルソンの提唱した14カ条を基調とし、国際連盟の発足などの成果もありましたが、主としてフランスの対ドイツ報復の色合いの強いヴェルサイユ条約が成立しアジアの独立運動に対しても冷淡でした。
*ヴェルサイユ条約によって作り出されたヨーロッパの秩序『ヴェルサイユ体制』と言います。

・禁酒法
1919年 ヒクヒク酒飲みカッコ悪いと禁酒法(〜33)
*キリスト教篤信者の団体などを中心にして、南北戦争以前から、幾つかの州で禁酒協会が作られる様になり、禁酒運動は一種の精神運動としてじわじわとその社会的な影響力を伸ばしていきました。
*開戦により、対ドイツ感情が悪化していた時代、ビールの醸造を行っていたドイツ系移民に打撃を与えようという考えや、穀物の節約のために、禁酒を好ましく思う政府の意向などを追い風として1919年1月、飲用アルコールの醸造・販売・運搬・輸出入が禁止する法律が、議会で可決されました。
*この法律は、F.ルーズベルトの大統領就任後すぐに廃止されました。

・国際連盟発足
1920年 イー国連盟仲良くしよう
*ウィルソンの提唱で発足した国際連盟ですが、前年のアメリカ上院の否決により合衆国は参加しないことになります。

〈ハーディング(1921〜23)〉

・ワシントン会議
1921年 ワシントンいー国一斉軍縮会議
*この会議で作り出された東アジアと太平洋の国際秩序『ワシントン体制』と言います。
*同年→『四か国会議』
日・英・米・仏
太平洋上の領土と権益を相互尊重することを確認。
→日英同盟は廃止が決定されました。
*翌年→『九か国条約』
日・英・米・仏・伊・白・蘭・葡・中
中国の領土保全・主権尊重・門戸開放・機会均等が確認され、日本の中国進出が抑えられました。

〈クーリッジ(1923〜29)〉

・移民法成立
1924年 日本人卑屈よ移民の禁止法
*1882年の『中国人労働者移民排斥法』に続き、東アジア移民を全面的に禁止するとした法律です。中国人移民は既に禁止されていたので、日本人を締め出すための法律でした。
*理由は、安価な労働力が白人労働者の仕事を奪っているというものでしたが、既に普通選挙を実現していた合衆国では、移民が選挙権を得ることになるため、特定の民族の新移民の増加が、旧移民にとって『脅威』となるのは必然でした。
*日本は、合衆国の『移民排斥運動』を人種差別問題ととらえ、すでにパリ講和会議の国際連盟委員会席上で人種差別撤廃提案を行っていますが、ウィルソン大統領の議長裁定によって採択されませんでした。このことは日本でも新聞などで報道され、日本国民の対米感情の悪化を招きました。

・パリ不戦条約 (ブリアン=ケロッグ条約)
1928年 列強の人急にやる不戦条約
米・英・仏・伊・日など当時の列強を中心に多くの国が署名した、締約国間の国際紛争を解決する手段として戦争を放棄し、紛争は平和的に解決することを定めた条約です。
*アメリカ国務長官ケロッグと、フランス外務大臣ブリアンの名をとってブリアン=ケロッグ条約とも呼びます。
*アメリカはこの条約に、他国による『侵略』に対する『自衛権』を妨げるものではない、という条件を付帯させました。

〈フーヴァー(1929〜33)〉

・ニューヨーク市場株価大暴落
1929年 人の国苦しむ株価の大暴落

〈F.ローズヴェルト〉

・F.ローズヴェルト大統領就任
1933〜45年 F.ルーズベルト戦もさーしごろ。

・ワグナー法(全国労働関係法)
1935 労働者の組み込まれたワグナー法
団結権・団体交渉権・ストライキ権など保障。労働組合の権利を認め、公正な雇用を実現しようとしたものです。

・大西洋憲章
1941年 戦争に行く用意して大西洋憲章
*フランクリン=ローズヴェルト大統領とイギリス首相チャーチルの間で行われた、第二次世界大戦の戦争目的と戦後の国際協調のあり方についての合意。もちろん、ナチス政権の崩壊を前提としたものです。

・太平洋戦争
1941年 行く良い地図に真珠湾

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